レインウォッチャー

ラブ&ポップのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ラブ&ポップ(1998年製作の映画)
4.0
女子高生がまだ「JK」と(一般的には)呼ばれていなかった時代のおはなし。

コギャル、エンコー、ルーズソックス、ポケベル、PHS。
渋谷系(コーネリアス『ファンタズマ』)、小室サウンド、ブレイクダンス。
ざらっとした夏が、紛れもない90年代を発散している。

今作は、庵野秀明氏がTVアニメ『エヴァンゲリオン』終了直後に取り組んだ実写映画作品だ。
裕美という少女にスポットを当てた、たった半日程度のロードムービー。女子高生と渋谷の夏、援助交際。
人生・時間がお金という数字に換算されて差し引きされていく様子が、危うく生々しく、しかしどこか赦しに満ちた眼差しで描かれる。

女子高生というブランド・価値を彼女たち自身も理解し利用している。
しかし、ブランドとは言い換えれば記号だ。紛れもない個々だったはずの彼女たちは、渋谷の雑踏の中でただの記号になっていく。彼女たちを「買う」男らもまた、彼女たちを(名前すら)記号としてしか見ていない。

だからこそ、彼女たちはモノを買う。
それは時間と共に減衰するブランドの価値を無意識に補填する行為なのかもしれないのだけれど、惹かれる水着や指輪もまた一過性のものでしかなく、やはり記号なのだ。幸せである、満たされているという記号。

一方、心の中でモノが占める割合は強迫観念的に大きい。時に容易く自分自身を天秤に乗せてしまえるほどに。
裕美がリュックの中身を広げてベッドに横たわるとき、モノと彼女の身体はほとんど変わらない面積で、彼女は窮屈そうに背を縮めている。
まだまだモノを所有することの意義が大きかった(裕美の父親は自宅で自慢の鉄道模型を広げているタイプ)この時代が、よりその有様を強調するようでもある。

いつまでもここに留まっていたいけれど、やがては過ぎていく時間、別の生きがいを見つけたり変化していく友人たち。
裕美がカメラを手放さないのはささやかな抵抗だ。そして、これは庵野氏自身の姿であるのかもしれない。どん詰まったままどうにか終わらせねばならなかった『エヴァ』、それでもただ置いてけぼりにされて忘れられるだけの記号を超えた何かを残したいという想い。

それがやがて『シン・エヴァ』という形で落着するまでこれからまた何度も山谷があるわけだけれど、今作で終盤、浅野忠信らの口を借りて語られる人生賛歌的メッセージの温度は大きくブレていない。
庵野秀明という人は今でもきっとびっくりするくらい青臭いことを、真面目にそのままの意味で言えてしまう人だから、この作品の言葉は彼の本音だったのだろうと思う。

そしてそれは、『シン・ウルトラマン』という新たな依代にも託されることになる。

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即興的な演出、ドキュメンタリー風でもある粗い映像だけれど不思議と目が離せなかった。

多用、というかむしろ乱用される実相寺アングル。
電子レンジの中や電線の上まで、最早大喜利のようなレベルでの視点が矢継ぎ早に繋がれていく。

当然ストレスがかかるが、それに振り落とされまいと集中しているうちに、やがて女子高生のモノローグに引き込まれていく。(原作である村上龍のセンテンス力ももちろんあるのだけれど。)
それに、その都会の隅々からの視線はまた、彼女らを舐めるように検分する男たちの視線とも重なるようだ。

また、手に対するフェティッシュともいえる執着が見て取れる。
日常の中で、手は顔よりも良く見るパーツで、その人自身をより濃く表しているとも言えるだろう。ネイル、手を洗う、コピー、マスカットを吐き出す掌、こびりつく体液…
関係あるかわからないけれど、エヴァンゲリオンって手がでっかいよね。