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プリシラのarchのレビュー・感想・評価

プリシラ(2023年製作の映画)
2.8
エルヴィス・プレスリーの人生の傍らに常に置かれていたプリシラの人生を寄り添う形で描く。
その行為には意義もあれば弱点もあるとわたしは思う。


この企画最大の面白みは、秘められてきたエルヴィスの"本当の顔"をゴシップ的に暴くこと。そして夢見る娘が、現実(家父長制)と対峙し、自立していく物語を時代のアイコンたる(そして女性人気の高い)エルヴィスの実生活に基づく伝記映画的に描いていることだろう。

プリシラの視点に立つことで、本作はエルヴィスのプライベートに踏み込むことになる。そこにはエルヴィスのセックスシンボルとしてのアイコニックさの裏に隠れたジェンダーロールを強いて、家父長の元に女性の自由意志を冒涜する"どこにでもいる男"の一面があるのだ。
確かにそのDV気質とモラハラ力は凄まじく、そこはゴシップ的にも面白い。ただそこを演出する上で意図的に本作のエルヴィスは単なる記号的な存在になっているのも事実だ。
撮影としてエルヴィスのアップは控えられており、尚且つ顔にあまり光を当てないようにされている。また肝心のシーンではプリシラの表情を優先してカメラに収めるため、エルヴィスの印象は書割的になっていく。極めつけはベガスでのショーのシーン。もはやただのシルエットで、本作にとってエルヴィスは舞台装置でしかないのが伺える。

この書き割りのようなエルヴィスは、演出の賜物であり、非常に興味深くはある。しかし、実際のところふたつの事態をもたらしていると思う。
1つは、エルヴィス側の複雑な状況、苦悩の無視だろう。バズ・ラーマンの『エルヴィス』や諸ドキュメンタリーを見れば分かるように、彼には彼なりの苦悩があり、悲惨な人生があった。
本作はそこをノイズとして切り捨てている。特に大佐という存在、エルヴィスの母への愛情(これが口説き文句として使っているかのように描かれており、陳腐化されているのは頂けない)についてはかなりハブられている。

そうすることで、プリシラの「何も知らなさ」が浮き彫りになっている。何故何も知らなかったのか、そこにエルヴィスのプリシラへの支配が関係してくるわけだが、単純にプリシラに同情しづらい作りになっているのは事実だと思う。


2つには、エルヴィスとプリシラの関係について。蓋を開けてしまえば、プリシラはエルヴィスにとって「大きな存在」ではなかったということが浮き彫りになってしまっている。

"エルヴィスの妻"というレッテルからの解放、プリシラとしての物語として確立されるのはそれこそ意義深く、面白い。だが、蓋を開けてみればプリシラの物語にはさほどドラマはなく、結局彼女は「何も持ってない女の子」だったのだ。


この「何も持ってない女の子」の話としての捉え方は大事だ。
つまり何が言いたいかというと、彼女が勉学も怠り、友人も少なく、趣味や自分の財産を持っていないのは、彼女の選択だったという事だ。彼女の選択で、家族を離れ、エルヴィスのもとに向かう。
エルヴィスによってアルバイトを止められたりとエルヴィスの家父長的振る舞いが原因でもあるが、テストのカンニングの際、エルヴィスの彼女という立場を利用した時点で、エルヴィスの彼女でしかない、(なんなら周りを見下している)存在になってしまった。
そこから開放されることでこの映画は終わるが、彼女の「何も持っていない」ことに対する自己批判の視点がないのがかなり引っかかる。


エルヴィスがその時代の男の例に漏れず、家父長的で妻にジェンダーロールを押し付けるクソ野郎だった、というのは間違いないのかもしれない。そしてその原因を時代や環境、性別に結び付けて現代的なテーマとして受け取ることも間違っていない。だが、エルヴィスの「エルヴィス」であらなければならなかったプレッシャーや彼をラスベガスに閉じ込め、最後には殺してしまったトム・パーカー大佐の存在をたぶんほとんど感知していなかったプリシラの視点で語れるのは、あくまでプリシラの物語でしかない。
2人の人生は絡まりあっているようにみせて、実はそこまで交わっているわけでなく、互いに互いの視点を語る資格はない。その距離感が丁寧に描写はされはしていたが、じゃあそれがこの映画を面白くしていたかといえば、それは否だ。


楽曲や衣装、特に美術セット系が卓越した一級の映画としてのクオリティーを生み出しているが、どこか合わない作品でした。
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