arch

ハッピーアワーのarchのレビュー・感想・評価

ハッピーアワー(2015年製作の映画)
4.7
ハッピーアワー、この映画におけるどの瞬間を指すのか。4人が一緒に居られた瞬間を指すのだろうか。でも彼女たちは皆何かを隠していた。
では、それらが暴かれた最後、"本当"に近づいた瞬間だろうか。
とてもそうは思えないのだ。。
幸せな時間は過去にあったのか、この先にあるのか。
誰もが正直に「自分の気持ち」に向き合い、他者を傷つけることになろうと自己を優先した結末の「以前」と「以後」。果たしてどこに幸せがあるのか。

公平がその先に地獄が広がっていることを確信しながらも、掴めるかもしれない「幸せ」に向かっていく姿に自分はその「幸福」の不確かさ、実態の掴めなさに、このタイトルに込められた言いようのない残酷さを感じた。

詳しく書いていく。

・ドキュメンタリーと劇映画を全く同じ手法で撮る
本当に驚かされた。つい最近観た『うたわれるもの』という濱口監督のドキュメンタリーと全く同じ撮影方式を取っているからだ。
冒頭の雨の日のピクニック。4人組の会話を4人を囲むように撮影している(カメラはその4人の内側に滅多に入らない)。
ワンテイクのようでありながら、複数箇所からの撮影のために繰り返されただろうテイク数が垣間見えつつ、そこには囲むように引かれる円形のイマジナリーラインが見えてくる。

その上で、演出および照明をあまり使わないスタイル(劇伴も控えめ)によってドキュメンタリックな撮影方式を取る。
それこそ、本来カメラがある位置に切り返しショットによって実態がないことが判明することは、(別作品を見ている時など)そこまで意識されない。
だがドキュメンタリー的であるが故に、あるはずの場所にカメラがない、言い換えるならば「実態のないカメラ」であることの違和感がら凄まじいフィクション性を醸し出すのである。
その手法は時折挟まれる急な主観ショットの効果を増大させる。その効果は主観に引き込まれるといったものではなく、視線の対象にされること、「覗き込まれる」ことの不安を強く感じさせるのだ。

これを『うたわれるもの』では全くの別方法で行っている。カメラが映らないような小型、或いは角度から会話している複数名を囲む。そして唐突な主観ショットは会話の最中に両者の間にカメラが用意され、会話を途切れさせることなく、ドキュメンタリーに主観を導入するのだ。(1つ前のショットで映像と音声が不一致になる場面がある。逆行を使ったシルエットのショットを挟むことで、映像的には擬似的な連続を作り出し、そこで主観ショットに切り替えているっぽい)

ドキュメンタリーと劇映画で、全く同じ映像の羅列(手法は異なる)を行うのは、異常なことに感じる。だが、それは濱口作品の「不確かさ」の源泉なのだろう。
劇映画をドキュメンタリーに接近させ、ドキュメンタリーを劇映画に接近させる。その方法論は濱口竜介作品に常に漂う不確かさに通じていて、役者への演出プランや作品自体のテーマにも密接で、全て同じ「不確かさ」の方向を向いているのだ。



・重心、円形、直線
本作は三部構成となっている。第一部において最も着目すべきは重心という概念である。(『ドライブマイカー』の印象が強い自分にとって)濱口映画らしいワークショップシーンがあり、そこで重心について説明がされる。
この場面はつまり、背中合わせで重心を保ちあっていた四人の女性がそれぞれの秘密の暴露、或いは純の失踪によって重心を持ち崩し、表面的な関係の破綻(そしてまた再生できるのか)する物語であることの予感なのだ。

そう思うと彼女らが背中を同方向に向けてモノレールに座る最初のシーンと、裁判所のシーンで同様に全員同方向に向きながらも、純だけが手前に座ってバランスを崩しているシーンの対比は、物語の転換を映像的に示唆している。

上記した囲むような円形のイマジナリーラインは随所に用意されるが、それもまたワークショップで予感される。
興味深いのは、それらは必ず電車という直線的な運動によって破綻を迎えることだ。例えば純とだいきのフェリーでの別れ、或いは桜子が電車に乗り、消えていくシーン。どちらも直線的な運動の強引なパワーによって、別れが演出される。
濱口監督はそういった軌道や配置によって状況を映像的に伝えてくるのだ。


余談だが第一部での人物紹介のシークエンスで、病院→食事→タバコ→夫婦→酒…(順番はあやふや)そして純という形で映像からの連想で4者の置かれている前提を説明するのもあまりに上手いと感心してしまった。


・出産
二部では「出産」について、3部では「好き」についてのパートになっている。
二部においては純と公平の裁判から始まり、だいきの彼女が出産するという話などが展開されていく。
子供が欲しかった純と中学生故に子供を下ろすことにしただいきの対比が素晴らしい。だいきもまた"出産"されたからこそ、生きていて、その遠因として純の存在があって。
フェリーでの別れのシーンは多層的な対比関係が、可視化されて、そしてそれが解かれる感動的なシーンになっているのだ。
「好き」という感情の延長線上にはなかったとしても、「出産」という行為に関してはどこか肯定したくなるのがこの二部だ。そしてこの二部は、三部における他者の理解不可能性が発露される準備になっている。

・人の形を虚ろ
三部は二部の裏側を見せる。「出産」の二部と「好き」の三部。(普通なら逆かな、なんて思ったりする構成)
この三部では見えていなかったものが発露される。
それらは単純なカタルシスではなく、人の内側にある自分本位の欲望、他者の「人の形をした虚ろ」としての側面が前景化される禍々しい何かへの驚愕。表面的なところからは知る由もなかった「何か」が溢れ出るのだ。
それらは2人の男を起点に始まるように思う。
鵜飼の空洞だからこそ理解不可能な立ち回り。全てに耳を傾け、理解しながらも幸福を求めて自身の信ずる幸福を求めて行動する公平。そういった4人の女性を揺るがすような存在がその存在感を一気に強めていく。


濱口作品に強く思うのはこの「他者とは理解不可能な存在である」という前提がちゃんとあることだ。"近い"と思う距離感はまやかしでしかなく、理解は一生できない「人の形をした虚ろ」としての他者。そこへの達観、或いは諦めを自覚して、初めて他者と関わることができるし、真にコミュニケーションできるのではないか、という前提がある。
時折本作では、キーやフィルのライトをあえて使わず逆光そのままに人を黒いシルエットとして捉える。表情を慮る映画の基本原理に逆行したその手法は、人を虚とし見事表象する演出として見事だ。

その前提の中で、先程述べた2人、公平と鵜飼の立ち回りが4人の女性を掻き回す。
鵜飼は理解不可能な他者として立ち回る。自分は本当はなんでもない人間だと悟られないように、そのパワーバランスを崩さず、観察者として主導権を握る。あかりにとっての理解不可能の他者は、決して居心地の悪いものではなく、興味の対象であり、都合よくピースをはめられる空白なのだろう。だからこそ、2人で夜に消えていくのだ。

また本作で最も好きなのが公平。とにかく皆からフルボッコに言われる存在。ストーカー気質であり間違いないが、彼だけが唯一と言っていいほど自身に正直で安全圏の外に自分を晒している。朗読会での彼の評論、そこでの言葉選びや発声の仕方にちゃんと考えて世界と対峙している人なんだと自分は涙した。冷たい人やロボットと形容されがちな彼こそが最も人の体温を感じさせる人間なのだと感じさせてくれるし、勝手な憶測だが濱口さんはそういう人間側でそういう人を肯定したいのではと思わされた。(そのうえで皆頭がいい人でついていけないという桜子の言葉を入れるのがバランス感素晴らしい。)

その後の打ち上げで画的に一対四の構図でありながら、空間の中心にすることで完全に場を飲み込んだ彼の振る舞いも圧巻である。ここが一番画的にも完璧で、彼の受け取った上で不動というスタンスを表しながら、彼の抱える地獄が垣間見える瞬間として素晴らしかった。

桜子も芙美もこの場面で、自らの「純のため」の言動の裏に自己弁護の主張が混じっていることが指摘される。


話は逸れるが本作、かなり登場人物の考えを他人が言い当てるという場面がかなりある。小説家の女性の指摘によって、桜子と芙美の偽善的な態度も暴かれるし、あかりも鵜飼の妹に暴かれる。本作におけるそういった「自分を言い当てる」キーになるような存在が物語を動かしている。なので、人がいきなり理解不能な行動に出るそのサプライズ感より、他者に栓を抜かれて突き動かされるような感覚がある。ある意味すごく、説明的な台詞で動かしてる作劇だいえる。


話を戻す。桜子も芙美もあかりも、2人の男性との接触により自らの内側にあった欲望を発露しはじめる。その果てに「好き」という感情が双方向ではないことのグロテスクさが露見し始める。桜子は夫が自分を好きだからこそ許すと踏んだ上で、浮気を告白する。また芙美は眼前で夫への「一方向性の好き」に晒されることで、離婚を決める。
他にも僅かなシーンだが、妊娠してしまったダイキの彼女がクラブで別の男と遊んでいるシーンが出たりする。
そういった「好き」という感情が届かなさ、「好き」という感情を持ったが故の(特に男性側の)脆さによって、傷つき傷つけられていく。なにより観客が神の視点に立ち、両者の立ち位置に立つからこそ、最も傷つけられるのだ。



彼女らの内外の不一致の独特な不気味さと、発露されること自体のカタルシスは周りの人間はもちろんのこと、何よりも観客を突き放すようなその感覚に陥らせていく。二部における観客が、出産というテーマを見つけ、「理解」した気になった後だからこそ、この唐突な「理解不能」な他者がより一層の観客に衝撃を与えるのだ。

完全に全てが破壊されるまでに至るラスト。果たして4人はまた旅行にいけるのだろうか。他者とは理解不能前提に立ちながらもすごく希望を感じさせる終わらせ方だ。人は全てをさらけ出しても尚、幸せだった頃を取り戻すことが出来るのか。取り戻せるはずだという気にさせてくれる終わらせ方だと思う。
arch

arch