KnightsofOdessa

Red Rooms(英題)のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

Red Rooms(英題)(2023年製作の映画)
4.5
[カナダ、殺人鬼を追う女] 90点

大傑作。パスカル・プラント長編三作目。連続殺人鬼リュドヴィク・シュヴァリエの裁判が始まった。彼は三人の少女の殺害をライブ配信していたというのだ(三人目の映像のみ未発見)。映画では多くの時間を割いて裁判の様子を観察する。特に冒頭20分は検察官と弁護士が陪審員に語りかける形で、異常な犯罪の全容と弁護の方針が語られ、映画の方向性も鮮明になる。傍聴席にはそんな検察官と弁護士の言葉をガン無視して、ガラス箱に入れられた無言のシュヴァリエを無表情で凝視する若い女性がいた。ファッションモデルのケリーアンだ。一日目が終了して高層マンションの部屋に帰っても一切表情を変えないまま、オンラインポーカーで荒稼ぎしながら仕事の返事をし、そのまま家を出て路上で寝るという変な生活を送っている。同じ裁判所には似たようにグルーピーのクレモンティーヌも通い詰めている。彼女はリュドヴィックがハメられたという陰謀論を盲目的に信じており、典型的な"グルーピー"として描かれている。感情のままに暴走するクレモンティーヌの存在は、全く感情を見せないケリーアンの恐ろしさを静かに際立たせる。彼女はリュドヴィックに対してどう思ってるのかは言葉にして表明しないが、クレモンティーヌとの会話で、彼の誕生日を知っていたり、拷問配信を自力で視聴していたり、個人情報漏洩確認サイトから被害者母親のメールに入り込んだり、別の犯罪に手を出すほど入れ込んでいることが分かる。そうした小さな情報を繋ぎ合わせていくことで、ケリーアンの思惑は朧げに明らかになっていく。それは容姿や金を手に入れた主人公がスリルを感じられるからなのかもしれないし、何も知らない人々(直接的にはクレモンティーヌ)にマウントを取ることで優越感に浸りたいのかもしれないし、自分が標的になりたいのかもしれない。グルーピー的な盲信とはまた違った側面から"殺人鬼"というものに惹かれていくのは起こりうることであり(現に殺人事件を解説する本やサイトや動画などで溢れている)、そういったある種"非社会的"な側面と、社会的な側面が両立可能であることがケリーアンによって提示されるのだ。近所の物腰柔らかなおじさんが実は殺人鬼だった…のような"社会的に見えて非社会的だった"という両立ではなく、文字通り同時に存在している様が描かれている。

冒頭からそうであったように、本作品は視線を巧みに描いている。一人だけシュヴァリエを凝視し、グルーピーを批判した被害者の母親を睨みつけ、食い入るようにPC画面を見つめるケリーアンの視線、裁判の争点ともなっている"映像でコチラを見つめる犯人"の目線、でも裁判中は虚空を見つめているというのを丁寧に描くからこそ、シュヴァリエがコチラに目を向けた瞬間の、超えてはいけない一線を超えた感触、しかしそれこそがケリーアンが求めていた瞬間、決して手に入らないだろうと思っていたものが手に入る瞬間であるという彼女の高揚感まで共有される。あの瞬間の恐ろしさったらない。わざわざ置き換えるような話でもないんだが、やっぱり長年探していた映画とかに会えたときの高揚感を理解できてしまう身として、あの瞬間のケリーアンの恍惚とした表情を見るに脳汁出まくってんだろうなあと思うなど。
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