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ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディのCinemanのネタバレレビュー・内容・結末

4.4

このレビューはネタバレを含みます

いやー久しぶりに気持ちのいい作品を観ました。
サイドウェイが大好きなので、アレクサンダー・ペイン✖️ポール・ジアマッティということで楽しみでした。
女性の描き方がうまくなりましたねー。

全寮制の居残りの話だから珍しく学校内に留まって展開されるのかなーと思っていたら、案の定、途中から学校そっちのけですw
ロードトリップの王・ペインらしくて安心。

聖なるホリデースピリットのお話かと思いきや、もっと人間臭いお話でしたね。
そもそも、クリスマスをあっという間に通過していくは、クリスマスだというのに「神が出てこない自省録」にこだわるは...笑
まあ、神に頼らないというところの泥臭さが人間臭いということでもありますね。
それでもホリデースピリットを皮肉りつつ否定はしないというのが今作の豊かなところです。

一見「普遍的」なものと思いがちなホリデースピリットにも時代性がある、というのが本作に深みを与えている。
ベトナム戦争、時代の混迷...もっというと人間としてこの社会で生きて行く道標や正義がわからなくなった人々の生き様をめぐる話なのですね。
この作品て、画面の質感とか画角や編集の飛び方のテンポなど、かなり60s-70s制作の映画っぽく再現されてるんですよね。
こういう映画の常で、なぜ今この時代の映画を撮るんだろうと思ってたのです、はじめは。
そこに通ずるのが、先の時代的な部分だと思いました。今という時代もまた、この時のように戦争や政争、技術革新など価値観の大転換の時にある。

Decentな..きっちりした人間として子供達を送り出すのが教育者の務めであり知識人の道と思ってきたポールに対して、教え子の若き新校長は学校運営のためもっと功利的な価値観を持っている。
どちらも間違っていないけれど、世の中の中心となる価値は何かという教養が著しく対立した時代...言うなれば新自由主義への入り口となったのがこの時代なんですね。
この時代に対立して浮上していた功利的価値観がその後世の中心に躍り出て、押しも押されもしない絶対的な価値になったのが現在...という見方もできると思います。
つまり、この映画はその出発点を描いているような気がするんですね。

作中では、ポール自身が古代史の教員であることもあって、「過去」と「今」というキーワードが何度も浮上していました。この「過去/今」には作中で何重もの比喩が重ねられていると思います。
先に述べたように、70sと現在の価値観や時代。
そしてポールとアンガス。

この2人の描写って、一見父親像を失った2人の邂逅という心理学的な見方もできるとは思うのですが、それだけじゃないと思うんですね。
父親のような男に息子はなる..という神話は、男の再生産であって、つまりは父権社会だからこその心理的恐怖な訳ですよね。ポールはそれを否定しました。
1人の子供としてたとえ病んでいようが同じような病理を持っていようが、別の時代を別の「子供」として出発して行くんだと言ったわけですね。
だからこの2人は安直に父子の代理関係ではない。常に支え合う友人同士に見えるのは、むしろポールの言うように別個の人間として生きてゆくという父権社会の打破を目指すからですね。

そしてポールの姿は、誰もが昔一度は学校で会ったことがある世の中の価値観の良心の姿ではないでしょうか。
私自身も思い出します。まさにおじいさん先生と家庭科で夜間対学校の食の面倒を見てるメアリーのようなおばさん先生がいて。
ポールじゃないけど、おじいさん先生は、受験に役立つなんてお構いなしで、歴史で学ぶべきは人間性の夜明けだと1年間みっちりフランス革命を語り切って堂々のフィニッシュ。ローザ・ルクセンブルクのブロマイドを定期券入れに大事にしまってたものです。学生紛争の最前線にいて新聞記者になりたかったけれど、その「反抗的」経歴のために会社に入れず、高校教師になった...
思えば彼の世代はアンガスの世代で。ポールのような先生に薫陶を受けたんでしょうか。

昼間の恵まれた家庭の生徒たちと、同じ校舎に来る夜間帯の全く異なる境遇の生徒たちを観て、世の中への懐疑が増す。
同じ校舎にいてすら彼らが交わることはなく、そうやって大人になっていって格差が再生産されるのを目の当たりにしていたんですよね。だから、昼の生徒たちはいつも軽蔑の眼差しを受けていた。無理もないわけですね。
一度たまたまこの映画のようにホールドオーバーズとして夜間帯の生徒と食堂で同じ釜の飯を食べた。その時浴びた眼差しは忘れ難いものです。

そういう眼差しを投げかける側にいるのがポールでありメアリーです。
それは世の中を生き残る術に全てをかまけず、青年の頃の世の道理への疑念を突き通す潔い教養主義世代の過去の知識人の名残です。

だからポールとアンガスは、父子ではなくて、互いの過去であり、現在でもあるという関係です。
そうであるからこそ、過去から今のために学ぶけど、また過去が今を束縛することはない、というスピリットが意味を持ちます。
お互いの姿は目指すべきすでに決まった姿ではなく、互いに答えのわからない一つ一つの人生だということです。

この映画はパッとみると全寮制もので、英国だけでなく米国でもブレックファースト・クラブとか「今を生きる」とか数々の名作があるジャンルと同ジャンルの作品に見えます。でもそういう形式をうまくひっくり返して利用してるんですね。英国代々の執事の語り物の形式をひっくり返して、信用できない語り手を展開したイシグロの「日の名残り」のようなものというか。
いうなれば、現代的価値観からのジャンルのアップデート。
やってる内容は、PinkFloyd のanother brick in the wallだと思いました。

階級や成金...その後の社会の重鎮となって行くであろう将来を期待された青年たちの知識人としての自覚が描かれるこのジャンルで旅立って行くのは普通青年ですが、こちらで旅立つのは実は教師のほうです。
しかも酒浸りも抗うつ薬も治すことなくそのまま旅立ちますね。自分の価値観は曲げません。広がりはするけれど。
そして教師だから、たった1人で行きます。他の2人は場所としては今いる場所に残るので。
ここがこの時代に叫ばれたもう一つのキーワード「連帯」の新たなあり方の一つに見えます。今の世も、「世の分断」がキーワード。
階層、人種、人生の段階..あらゆる点で異なっても共通点を見出すことがある。そして、全てに同意しなくとも、必ずしも一緒のことを言わず行動せずとも、信念のうえでそれぞれの形で連帯し支え合って別々の人生をゆくこともできる。この点は、すごく現代的な善き独立の姿との折衷ではないでしょうか。
独立とは1人で立つのではなく、さまざまな形で支えを持ち合うということだと。「あなたなら大丈夫」と互いに言って別の方角へ歩き出すような関係だということです。

メアリーの立ち直る過程なんかまさにそうです。みんなに言えるけど、この作品では恋愛は前面には出てきません。恋人、教師、友人、姉、生まれてくる子供...時に亡き人の残した音楽の趣味が、それぞれ複合的に淡く支えてくれる。
様々な関係に分散した支えの姿は健全です。

こうしてみると、この作品自体がまさに「過去」であり「今」であり..
とっても今日的でかつ古びないであろう作品として作られた妙があると思い増す。

そのほか諸々、この映画は脚本だけでなく演出の小道具も上手いですね。学校の生のツリー(下取りに出されるw)、女性宅の月面着陸記念の人工ツリー、精神病棟の真っピンクのツリー。食べ物やスノードーム、そして盗まれた酒など、乙なもんです。
誰もいなくなった学校って、学校の雰囲気に圧倒される普段と違って、自分が場を支配してるようでワクワクしたから、こ綺麗な学校の面と、アンガスが探検する学校の裏の顔も楽しませてもらいました。

次のクリスマスからは、この映画を観るのが習慣になりそうです。
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