「ただで起きないために自ら転ぶ」そんな選択が許された時代に、映画愛溢れる井浦新さんと東出さんが次期監督候補の若者を暖かく支える。しかも実在の出来事なので、気になる固有名詞がバンバン出てくる。もうこの時点で勝ち確でした。映画館で観れずすみませんでしたという気持ち。
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邦画界に数々の作り手を排出した若松プロの創始者である若松孝二監督を巡る史実をノスタルジックに描くシリーズ2作目。
前作は60年代末を舞台に、若松プロに出入りしていた海千山千の実在映画人を、これまた何癖もある役者陣(門脇麦、山本浩司、毎熊克哉、藤原季節などなど)がエネルギッシュに演じており、勢いのあった時代を追体験できる幸福があった。
一方、今作はビデオの登場により映画、とりわけ若松作品のようにソフト化されない過激な作品は斜陽化しはじめている80年代が舞台。自身の作品を再び日の目に当てるため、若松監督が一念発起して開業したミニシアター「シネマスコーレ」の支配人を、ビデオセールス業でくすぶっていた映画マニアの木全純治さんに打診するところからストーリーははじまる。
そこからは「シネマスコーレ」に集う2人の映画監督志望の若者を中心に、彼らを優しく見守る木全支配人のアメと、叱咤激励する若松監督のムチが繰り広げられる。
前作に比較し登場人物がぐっと限定されているからこそ個々のキャラクターがよりフォーカスされ、心情の解像度が高い。それぞれ異なる映画愛と真摯に向き合う姿が胸に沁み、前作とは別のベクトルで多幸感を味わえる最高の作品だった。
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実は若者2人のうちの1人は監督脚本を務める井上淳一さんの若かりしころ。つまりオートフィクション作品なのだが、井上というキャラクターが中心になるのは開始30分を過ぎてからという珍しいタイプの自伝映画だと思う。
井上監督は自分を話題の中心にするつもりはないようで自身はひたすら卑近に描く一方、その反面として若松監督をとにかく魅力的に描く。今作の若松監督は相対する若者たちが子ども程の年齢になっていることもあってか、粗暴な見てくれに反して芯の暖かみがとにかく隠せていない。
そんな若松孝二を前作に引き続き演じた井浦新さんがもう本当に素晴らしすぎる。焼肉屋、新幹線、深夜の長電話などなど、登場する全場面に愛すべき人物としてのオーラが漂っている。晩年の若松作品常連の井浦さんだからこそできる演技だし、井浦さん自身が若松監督をどのように認識していたかがよくわかる。
また終盤に、井上少年が新藤兼人さんの「人は誰しも一生に一度は傑作を書くことができる。それは自分自身を書く時だ」という名言を引用する場面があるんですが、これって井上監督が今作を一生に一度のカードと捉えていることのお気持ち表明シーンですよね。
そうなってくると一世一代の作品で自分を落とし、師匠を立てるスタンスを選択したことにグッとくるし、そうしたいと思わせたのは若松監督その人なんだなとますます魅力的に見えてしまう。
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「凡庸の苦悩」というテーマは前作に引き続いているためギスギスするのかと思いきや、じんわりと陽の空気感が漂っているのも今作の魅力。これはひとえに東出さんの演技に寄るものだと思ってます。
ここのところは影ある役が多くなっておりそれはそれで持ち味なんですが、実は『聖の青春』『winny』よろしく「狂気的に何かに熱中している人物」は得意技の一つであり、そのニコニコは意外にも作品全体を明るく照らします。
一方で、ラスト近くに繰り広げるピンク映画or名画座論争のシーンでの鬼気迫る表情は緩急が効いており、若松監督が気圧されるのも納得の名演技でした。
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前述したとおり、会話の中に気になる固有名詞が頻繁に登場するのもお楽しみの一つ。黒沢清、森田芳光、周防正行、林海象監督などなどは木全さんから次世代を担う監督として上映候補に挙げられる。作中の時代にどんな映画を撮っていたのか調べるだけでも楽しい。
映画関係者以外でもゴールデン街での飲み仲間として岡留安則や牧野剛などアナーキー寄りの人物たちがキャラクターとして登場したりもする。
彼らの掲げるリベラル論法に対してのリアクションを聞いていると、若松監督という人は闇雲な活動家ではなく、シンプルに平和を願う反骨心のある映画作家だったんだなと実感する。