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「水は上から下に流れる。」
パラサイトを想起させる社会構造へのメタファー。
補助金目当てで、グランピング施設を開発しようと企む落ち目の芸能事務所。
彼らが自然豊かな長野に侵入することで、それまで均衡を保っていたバランスが崩れ始める。
淡々と描かれる長回しのシーンで眠くなってからの、真骨頂とも言える会話劇でまた一気に引き込まれる。
特に、芸能事務所をやめて長野に移住しようかな?というマネージャーの高橋。上手く割れた初めての薪割りに、ここ10年で一番嬉しかったかも、と無邪気に話す姿に感情移入し始めたと思ったら…
衝撃のラストシーンへ。
それまで、全てがグラデーションのように中立で、バランスを重んじてきた巧が取ったあの行動は一体。
そもそもこの映画自体、音楽家、石橋英子との企画で始まったものなので、MVのように結末などないのかもしれないが、、
以下、ネタバレ&考察。
手負いの鹿。
ニット帽を脱いで近づく花。
助けるために近づこうとした高橋をなぜか羽交い締めにして、気絶するまで首を締める巧。
その間に鹿に殺されてしまう?花。
オープニング同様、平行移動する木々のカメラワークと、巧の荒れる呼吸でエンド。
「鹿が人を襲うことはない。あるとしたら手負いの鹿か、その親なら」。
思えば、巧自身グランピング説明会で言っていたように、適度に自然を壊してきた振り子のように脆い存在だ。チェーンソー、タバコ、排気ガス。
娘への愛情はどうだ。
何度もお迎えの時間を忘れてしまう。
家でも一人絵を描いていて、花を邪魔そうにおならもして「最低」と言われて蹴られる。肩に乗せるシーンはあるが、目を合わせることが少なく、どこかよそよそしい。
奥さんを失っていることからも、どこか傷を負い、損なわれたキャラクターだ。
そして。
自らの過ちによって再度娘を森に放置してしまう。
大きく揺れ始める振り子。
都会から来た高橋ら2人を相手にしていたことがその原因の一つにもなり、ストレスにもなっていた。
そして花と、神聖な鹿が打たれている場面に遭遇してしまう。
(「グランピングが完成したら鹿はどこへ行くんだ?」の問いに「どこかよそへ行くんでしょう」と無責任に答えていた高橋が頭をよぎり、バランスがすでに崩れ始めていることに気付く)
手負いの巧は、これ以上高橋を我々に近づけてはいけないと、不用意な行動を取った高橋を(花に対しての関心が一瞬失われるほど本能的に)攻撃した。
我に返った時には花は倒れていた。
と、解釈してみましたがいかに。
最後に監督自身のラストシーンへの想いを引用。
「ああいう終わり方にしようと意図してそうしたというよりは、まず自然にそう書いてしまった。その後で、そう書いたことに自分で腑に落ちたっていう流れです。自分のなかでは全部を言語化しているわけではないですが、全体の流れとしてそんなに整合性がないわけでもないと思っています。
ただ、もし映画は何か答えを提示するものであって、その答えを示してくれるかどうか、ということが映画を観ることの一番の関心事だとしたら、それはちょっと貧しい考え方なのではないかと一映画ファンとして思います。映画は何かの問題に答えを出すものではなく、どちらかといえば、問いそのものというほど大げさではないけれど、我々が解決できないような問題と一緒に生きて行くことを促すものだと思うので、何か答えを提示する必要があるとは思ってないです」