ナガエ

悪は存在しないのナガエのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
-
「さっきの話なんですけど」
「うん」
「野生の鹿って、人を襲うんですか?」
「襲わない」
「でも時々、奈良の鹿が人を襲ったとかってニュースになってたりしますよね」
「あれは人に慣れすぎてるだけ。野生の鹿は襲わない」
「絶対に?」
「絶対に。人を見れば必ず逃げる。可能性があるとすれば、半矢の鹿」
「ハンヤ?」
「手負いって意味。逃げられないとしたら、抵抗するために襲うかもしれない。でも、あり得ない」
「でも、人を怖がるっていうなら、そもそも、グランピング場を作ったら鹿も近づかなくなるかも」
「……その鹿はどこへ行く?」
「どこって、どこか別の場所」
「……」

ってことなのか? っていうことなんだろうか?

と、あまりに衝撃的だったラストシーンを思い返しながら、混乱状態の中にいる。今も。何なんだ、この映画。

『悪は存在しない』というタイトルが、実に絶妙だ。観る者は否応なしに、常にこのタイトルを意識せざるを得ない。

本作では、様々な「悪っぽいもの」が映し出される。その最も分かりやすいものが、「自然豊かな土地にグランピング場を開発しようと目論む、東京の芸能事務所」の存在だろう。「なぜ芸能事務所がグランピング場を?」というのは、作中で説明される。「コロナの助成金をもらっているから」だ。「事業計画を出せば通る」みたいな状態のようで、そのため金儲けのために、勢いのあるグランピング場を突貫でもいいから作ろう、と目論んでいるのだ。

さて、そんな風に目論んでいるのは、芸能事務所の社長と、この計画にアドバイスをするコンサルである。そして、実務を担当する2人は、そんな計画に不信感を抱きつつある。その想いは、住民説明会の後で一層膨らむことになる。住民の指摘は、どれも妥当だ。それを無視して、「助成金をもらってるから計画を後ろ倒しには出来ない」みたいな理由で、ここにグランピング場なんか作っていいのだろうか? と。

物語は一見、「住民」と「グランピング場建設を目論む芸能事務所」の対立が描かれるような雰囲気がある。しかし、そんなシンプルな話ではない。住民側は「絶対反対」というわけではなく、「ちゃんとした計画なら乗る用意がある」と主張するのだし、芸能事務所の担当2人は、会社の方針云々とは別に、住民の意向に沿った形で進めていくべきだと考えているからだ。

このように、「悪っぽいもの」が描かれつつ、実はそうではないという構図になる。そしてこのような展開の物語だからこそ、観客は頭の片隅で常に『悪は存在しない』というタイトルのことを意識させられることになる。

冒頭で書いた鹿の話にしても同じだ。芸能事務所の担当2人は、地元で便利屋を行う主人公に「この土地のことを教えてほしい」と頼む。そうやって関わりが生まれたことで、住民説明会の時には出なかった「建設予定地は鹿の通り道なんだ」という話がポロッと出てくるのだ。

初めは「塀を作らないといけないか?」「野生の鹿は2mはジャンプする。3mの塀が必要だ。そんな場所にグランピングに来たい人がいるのか?」みたいなやり取りをする。しかしその後、「人を怖がって逃げるなら、鹿がいることは悪いとは思わない」みたいな話になる。これも、先程とは少し違った意味合いだが、『悪は存在しない』というタイトルを意識させる状況と言えるだろう。

ただその後の、「グランピング場が出来たら鹿が近寄らなくなるかも」「だったら鹿はどこに行くんだ?」というやり取りが印象に残っている。芸能事務所の担当者が「どこか別の場所に」と返したのに対して、主人公の便利屋は沈黙で返す。この沈黙に、何か重い意味が含まれているのだろうと感じた。

安易な想像をすれば、「鹿だけじゃない。人間もどこに行けばいいんだ?」みたいな含みを持たせているのだろうか、と思う。そう思う理由の1つに、住民説明会の中で出た「水」の話がある。

住民説明会の中で議論が紛糾したのは、「合併浄化槽」についてである。要するに、生活排水や汚水を処理するタンクみたいなことだろう。そして、「水資源の豊かさ」に強い自負を持つ住民が、この浄化槽の設置場所や処理能力などに疑問を呈すのである。

その中で、「私は少し前に移住してきたばかりなのですが」と話し始める、うどん屋を切り盛りする女性が発言し始める。映画の冒頭、主人公の便利屋が川から水を汲んで持って行く場面が映し出されるのだが、この水は彼女が営むうどん屋で使われるものだ。

そして彼女は、「住民の支えのお陰でうどん屋をやれている」と語った後、さらに、「住民の皆さんと話をすると、『水の豊かさ』に対する誇りの強さを感じるんです。あなた方には、この計画が、そんな『町の誇り』に触れるものだと理解していただきたいです」と告げるのである。

さらにその後、区長である男性が、「上に住む住民の義務」について語る。彼らが住んでいるのは山の上の方であり、そして「水」というのは上から下に流れていく。つまり、彼らが「水」に対して与えた影響は、必ず下に住む住民に影響を及ぼすことになる。だから上に住む住民には「水を汚さない義務」があるのだ、と語っていた。

このように、この土地に住む人々にとって、「水の豊かさ」は大前提と言えるようなものなのである。

さて。鹿は「人を恐れるため、グランピング場が出来たら近づかない」。では人間は? 実はこの地に住む者たちは、「決して歴史は古くなく、ある意味で皆移住者」と言っていいらしい。もちろん、住み慣れた土地をそう簡単には離れないだろう。しかし、元々移住者なのだから、特に彼らが誇りを抱いている「水」が豊かさを失ってしまったら、彼らはこの地を離れるかもしれない。

便利屋の沈黙は、そんな含みを持たせていたようにも感じられたのだ。

そんな風に考えたのは、やはりあの衝撃的なラストシーンを観たからだ。普通には、なかなか説明がつかないだろう。つまり便利屋は半矢だったと考えるべきなのだと思う。

ちなみに、このラストシーンに至る過程もまた、『悪は存在しない』というタイトルを強く意識させるものだ。時々森に響く鹿猟師の銃声。毎日うっかり忘れてしまうお迎え。父親が持つ豊富な森の知識を吸収しようとする娘。花が森から持ち帰ってくる”贈り物”を喜ぶ区長。これら「悪ではない」要素が入り混じってあの状況が生み出されている。

そしてそんな「『悪は存在しない』と言うしかない状況」に「半矢の便利屋」が直面することになる。それらすべてが絡まり合ってのラストなのだろう、と、とりあえずは自分の中で消化しようとしている。

さて、『悪は存在しない』というタイトルに絡めてもう1つ書くなら、先程触れた区長の話、つまり「水は上から下に流れるのだから、上に住むものは義務を負っている」という話にも触れられるだろう。この場合、『悪は存在しない』というタイトルは逆説的な意味で使われていることになる。

「水質の悪化」という状況が起こった場合、その要因を探るのは恐らく容易ではないと思う。客観的には「グランピング場の建設」が原因であるように思えても、それ以外のことが関わっている可能性も否定しきれない。何かを原因として推定するためには、「それ以外のあらゆる要素は原因ではない」ということも一緒に示す必要があるのだろうし、なかなかそれは困難だと思う。

一方で、「水質の悪化」は、広く広く影響を及ぼしていく。森の動植物、川や海に住む生き物、水を使う人間など、影響は甚大だろう。しかしその一方で、例えば川の水ひと掬いがもたらす「悪」はほとんど無いとも言える。「悪」は薄く広く拡散しているため、局所的には「悪」を見つけきれないのだ。

このように、「原因(悪)の推定が困難」「局所的には悪を見つけられない」というような状況もまた、皮肉的に『悪は存在しない』と言えるように思う。

そしてこのような状況は、僕らが生きている社会にも様々に存在し得る。

例えばスマホ。スマホは水と同じくらい生活に必要なものになっていると言えるが、一方で脳や身体に与える悪影響も様々に指摘されている。ただ、多少汚染されていようが水を使わないわけにはいかないのと同じように、スマホもなかなか「使わない」という選択が難しい。

スマホも、僕らの生活に突然やってきた。突然建設計画を告げられたグランピング場のように。そして、「利益をもたらすよ」と言われて受け入れてみたのはいいものの、結局薄く広く「悪」がばらまかれている。しかし、もはや「スマホを使わない」という選択の出来ない我々は、あたかも『悪は存在しない』かのように思い込みながらスマホを使っているというわけだ。

このように、冒頭でも書いたことだが、本作は『悪は存在しない』というタイトルであるが故に、あらゆる方向に思考の触手を伸ばすことが出来る物語だと言えると思う。視覚的に伝わる情報は非常にシンプルで淡々としているのに、「自身の絵の中に様々な意味合いを盛り込んだレオナルド・ダ・ヴィンチ」のように、「見えているもの」だけからは判断できない深い世界が広がっているように感じられた。

さて、濱口竜介の映画らしく、「会話」が実に魅力的だった。これまで『偶然と想像』『ドライブ・マイ・カー』『親密さ』『ハッピーアワー』と濱口竜介作品を観てきたが、どれも「脚本しか存在しない」と言っていいぐらい、とにかく脚本の力が強い。そしてその中でもやはり、「会話」の面白さやリアリティが抜群だと思う。

これまで観た映画だと、『偶然と想像』がとにかく印象的だった。3の短編で構成されるのだが、その内の1作『扉は開けたままで』で客席から爆笑が上がり続けたのだ。別に登場人物たちは「面白いこと」を口にしているわけではない。しかし観客からすれば、思わず笑ってしまうような状況が映し出されるのだ。

そしてそれは、本作『悪は存在しない』でも同じだった。決してそういうシーンが多いわけでは無かったが、本作でも、「登場人物たちが面白いことを言っているわけではないのに、観客は思わず笑ってしまうシーン」がいくつかあった。ホントに、こういう会話の妙を描くのが上手いと思う。

また「会話」と言えば、「車内の会話」がしばらく続くシーンがあるのだが、こちらはなんとも「リアリティ」を感じさせるもので、また別の意味で印象的だった。この車の中の会話のシーンは、『偶然と想像』の中の『魔法(よりもっと不確か)』の車中の会話に近い印象がある。中身があるわけではない、本当にそこら辺の喫茶店で適当に録音した誰かの会話をそのまま脚本にしているような内容なのだが、だからこそと言うべきか、その会話に異様に「リアリティ」を感じさせられるのだ。ホントに、不思議な才能だなぁ、と思う。

映像的には、「画面を固定したワンカット長回し」みたいな場面が多かった印象がある。「風景画を収めた額縁の中で、少しだけ人間が動いている」みたいな印象を与えるような構図で切り取られるシーンが結構あったのだ。どんな意図でそうしているのかは分からないが、そのような撮り方をすることで、「自然の静」と「人間の動」が、そして「自然の大」と「人間の小」が絶妙に対比されている感じがした。結果として、「動いている人間」ではなく、「それを包容する自然」こそが映像的な「主」と言えるような印象になっている気がする。

そういう「画面を固定したワンカット長回し」で個人的に「これは大変だったんじゃないか」と感じたのが、薪割りのシーン。「失敗を続けた後、アドバイスを受けて一発で成功する」みたいな状況が映し出されるのだが、最終的にその「一発で成功する」みたいな部分まで、5~10分ぐらいは長回しが続いたような気がする。そのシーンの前半は「便利屋がひたすら薪割りする」という感じなので、もし「一発で成功する」に失敗した場合、便利屋が薪を割り続けるところからやり直しなわけだ。何回ぐらいテイクを重ねたのか分からないが、大変だっただろうなぁ。

ラストの展開は、今後も時々思い出してしまうだろうなと思うぐらい結構な衝撃だったし、恐らく一生消化できないままな気もする。ただ、「それでいいんじゃないか」という気にもさせるから凄いなと思う。「分からないもの」というのはなかなかするっとは内側に取り込めないものだが、「分からないけど、でもそのまま取り込んでおこうか」と思わせる何かがあると思う。それがどんな理屈で成り立っているのかは、よく分からない。濱口竜介はホントに、不思議な映画作家だなと思う。

最後に。個人的に最も驚いたのは、この映画が「東京でたった2館でしか上映されていない」ということだ。なんでだよ。映画館が拒否してるのか、濱口竜介側が拒否しているのかは不明だが、『ドライブ・マイ・カー』を撮った監督の映画がこれほど上映館が少ないというのは驚きである。

そんなだから、今日も映画館は満員だった。そりゃあそうだろうよ。
ナガエ

ナガエ