横川百子

アイアンクローの横川百子のレビュー・感想・評価

アイアンクロー(2023年製作の映画)
3.0
【鑑賞後数日経った今、まだモヤモヤしているので文章化で自分の深層心理を探る】

このモヤモヤはなんやろか?

料理に例えると、調理されたものを出されたとゆーより素材それ自身のポテンシャルが高く美味しい食材をそのまま出されたような感じ…。なのかなぁ?

で、一緒に食べてるみんなが、

「美味しい(悲しい)!美味しい(悲しい)!良い料理(映画)だ!」

って褒めてるのを一緒に食べながら聞いてるモヤモヤなんか?う〜ん、違うか…。

「これ、元々の食材(出来事)が美味しい(悲しい)だけやん!?褒めるほど技術を駆使して調理(作品化)されてないやん!?」

みたいな…?そんな感じかな…?

違うか…。うん、もうちょい考えよ。


【鑑賞後の映画の感想】

個人的に、映画史において過小評価されているけれど実は大傑作だと思っている「フォックスキャッチャー」という作品をどこか重ね合わせて超楽しみにしてた本作。

あの初見時の衝撃をもう一度!と、オッチャンだらけの客席で泣く気満々で前のめりになって観始めたけど、結果的には泣けなかったです。

一言で言うと本作には…、

「事実」は映し出されているかも知れないけれど「ドラマ」は映し出されていない。

気がしました。

「ドラマ」が無いと言っても別に派手な見せ場や山あり谷あり起伏の激しい展開を求めている訳でもありませんし、「いやいや、がっつり重いドラマあったやん?」と、疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。
これに関しては要するに「ドラマ」とは何か?という解釈の違いだけな気がするので人それぞれで全然イイと思います。

私の考える「ドラマ」とは言い換えると「葛藤」であり、淡々と進む作品でも一見非常に静的な印象を与える作品でも、劇中人物の激しい「葛藤」を自分の事のように感じて物語世界に没入出来る作品はいくらでもあるので、そういった意味での「ドラマ(葛藤)」を本作から感じる事が無かった。と言う意味で「ドラマ」が映し出されていなかったと感じただけです。

何故ドラマ性が薄く感じるかをざっくり要約すると、普通父子物の定石と言えば権威的で頑固な父とそれに反抗する子との相克でドラマ(葛藤)性がうまれるのに対して、本作ではそんな父に従順な息子たちだからこその悲劇というテーマをえがく構造上、基本的にはそもそも相克・葛藤が生まれず、それらしきものが芽生える描写は物語の終盤も終盤に描写するしかないという説話上のジレンマに陥っている事に起因しているからだと思います。

が、そもそも「葛藤」を描く事を目的としていたのではなく「葛藤」が無かった息子たち・精神が限界に追い詰められるまで「葛藤」するという事に気付けなかった者達の悲劇を描き出す作品だったので、ある意味表現目的の具現化には成功していると言える諸刃の剣なのでこの辺りの按配は好みと言いましょうか難しいですね…。

観る前は正直、題材的にもあらすじからも号泣必至の間違いない「ドラマ」作品だろうと確信していたし、今年のアカデミー賞から完全に無視されていたのも「相変わらずアカデミー賞はセンスないわー」と思っていたけど、鑑賞してみると「今回のアカデミーの判断はあながち間違っていない妥当な判断かも…」と妙に納得してしまいました。

おそらく号泣必至のシーン、大絶賛する人がまず口にするであろう箇所はあの「兄弟再会シーン」と「ケビンの子供達のあの言葉」辺りが最も多いと思うのですが、あそこに至るまでの作中のドラマ性が薄かったため(作中の出来事の悲劇性は濃いのですがドラマ性とは別)、あのシーン群でさえ泣きはしなかったなぁ。別に「泣ける」「泣けない」が映画の評価・価値基準ではぜーーーーーーーーっ対にないので全然イイですし何ならあの「兄弟再会シーン」は最高!の映画的表現で、映画の特性を見事に活かした素晴らしいシーンだと思います!

が、斜め前の席で号泣してたオッチャンみたいにはならなかったです。

それはやっぱり、今作が基本…

悲劇起こる→悲しむ→悲劇起こる→悲しむ落ち込む→悲劇起こる→悲しむ境遇を呪う→悲劇起こる

の繰り返しで、ただただ数珠繫ぎに起こる悲劇の出来事を受け身的に体験していく共感性でしか心を動かされない事の物足りなさが鑑賞後の私の消化不良に繋がっていたのだろうと思います。
「まー次から次へと不幸が起こるね、同情しちゃうわ、悲しい…」という以上の劇中人物に自分が同化したかのような感情移入から生まれる悲しいが湧き上がっては来ませんでした。

あのパム役の女優さんは最高!とても印象に残るお芝居による存在感でした!