イーストウッド、なにやら大変な事態に...なっていたのですね。
JUROR #2 来年公開かなと思っていたら、『陪審員2番』というミスターガラス並みの邦題でMax U-next 独占配信(u-nextではない人は123にあります)と。ちょうどu-next月末まで入っているので、見ますが、なんとも。もう映写されないとイーストウッドの遺作ですら..
この映画はイギリスで広く公開され、全国300以上の映画館で上映された
イギリスが強い。どうせ日本は、追悼上映では、上映するんだろ!卑劣さ!
複数の罪と一つの罰
黒い帯の目隠しから始まるのは、ほぼ「ザ・タウン」、今さらベン・アフレック。なぜベン・アフレックはイーストウッドに出られなかったのか、フィンチャー出ちゃったから。
フィルムではない闇の軽さ、そして音楽がない、音楽を担当しないイーストウッドはイーストウッドではない。パーフェクト・ワールド、マディソン郡以降のイーストウッドは、あのピアノ・ブルースが創作をしていた。その点では最後にやめたハドソン川で終わっていた。
法廷での固定のパノラマ的ロングも、なにかレンズが違う気がするし、手持ちかティルト・パン外しのいつもの適当なショット郡も、その微細な揺れがいい方へは向かわない、切り返しから最後に扉が閉じられても、どこか教科書的な繋ぎに見えてしまうのは、被写体との演出を交えた時を与える交換が性起されないからだ、この時点で万田ワークショップが魂ではなく、型として方法論のように流通していく限界がある。おそらく吹きっさらしの天井の高い空間たちはデジタルにおいて鮮明な寒々しさを空気として捉えてしまっていた。これが16mmならどうだっただろう。だが、雨とととも終盤は緊張感が息づく。デジタルはマッスを持ってコントラストを高めよ。それにはハイライトがやはり必要だ。感度がいいとかではない。晩年のアルトマンにはならなかったことはいい。これは遺作ではない、呼び水だ。しかしオリヴェイラやゴダールでさえ、遺作の長編が傑作だったかはさだかではなく、シベリウスに掛かっていた、あくまでも短編の偉業。ロッセリーニと不可思議な静けさ。イーストウッドは短編のドキュメンタリーをもうひとつ、それがいいと思う。それにしても女優は何処へ?ソンドラ・ロックはどこへ?ノック・ノック Knock Knock (2015) ※製作総指揮
昔の女を呼べないイーストウッドは批判されるべき。法廷に立てクリント!
扉は開かれ、鳴くはずのない蝉やら虫の声が聴こえる。ブルーアイズ
犯人は生き延びるだろうか、ミスティック・リバー、ミリオンダラー・ベイビー、その時には一人だ家族ではなく
And what about justice?
Well, sometimes...
the truth isn’t justice.
[scoffs] You really believe that?
「彼とは少しだけ話したことがあるんだ。『ザ・タウン』の音楽をワーナー・ブラザーズにあるイースウッド・スコア・ステージでレコーディングしていて、あるときエンジニアたちが突然話すのをやめた。それで『どうしたの?』って後ろを振り返ったら、クリント・イーストウッドがふらっと入ってきた。“スター”に会って、あれほどドキドキしたこともなかったよ。僕はあわてて『クリント、こんにちは。どうぞ入って来てくださいよ』って言った。そうしたら彼が『いや、僕はちょうど立ち寄っただけなんだけど。何を作っているの?』って言うから、『ええと……警察と強盗の物語です』って答えた。すると『ああ、僕もそういう映画は何本かやったことはあるよ』ってね(笑)」