ヤマダタケシ

バティモン5 望まれざる者のヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

バティモン5 望まれざる者(2023年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

2024年6月 武蔵野館で
・パリ郊外の団地を舞台に、そこに暮らす移民やその子供たちの姿、彼らが自らに向けられる差別意識・排斥とどう対峙するかを描いてきたラジ・リ監督の一連の作品の三作目。
└何となくであるが、『レ・ミゼラブル』の後に作られた『アテナ』と今作は、それぞれ『レ・ミゼラブル』からはじまった二つの続編のように感じられた。
→『アテナ』はまさしく、『レ・ミゼラブル』のラストで掲げられた火炎瓶が叩きつけられた後を描き、差別意識や排外主義がベースにある場所で怒り・暴力が爆発した際にそれにどう向き合うべきかを描いていたように思う。
 なのでかなり続編のようになっていた。
→一方今作は、レミゼ⇒アテナに続く続編というよりは、レミゼでやった事を修正しながら再度作り直し、少しずつ別の答えへと導いて行ったように思う。

・その意味でこの三作に共通するのは火を点けるかどうか、の逡巡である。
└このシリーズにおける火はまさしく怒り・憎しみであり、また排除され続けてきた彼らが返す暴力としての返事である。
→なので今作もレミゼよろしく、火を点けるのかどうかがラストの重要な展開になっていく。イコールでそれは向けられた暴力に暴力で返すのか?という事でもある。

・そしてその葛藤の手前に、この火を点けるのかどうかの逡巡に至る手前、その場所に関わる様々な人達が、それぞれの立場で描写されていく。
└その意味で言うと今作は三部作の中で一番冷静にこの問題にどう向き合うのか?の視点で描かれていたと思う。
└この三部作で印象的なのはその舞台になる団地の全体を撮った空撮のカットであるが、今作でもそれは冒頭とラストに入ってくる。
→特に印象的なのが、ラストシーンでの夜の団地。街灯に照らされた周囲の中で人が追い出された団地だけが真っ暗く際立ち、カメラがそれを真上から捕えた時にそれはまるでパリにぽっかりと空いた暗闇のように見える。
→つまり、それはパリという街の地図にしっかりと存在しているものであり、例えば市長がそれを望まなかったとしてももうそこにある物である事を表わしていたと思う。
→それは無視できないものとしてそこにある問題を際立たせる事であったと同時に、この映画を観た人間をその問題と向き合わせる。
→ずっと移民の二世、三世が暮らし、生活の場になった団地を撮りつづけた三部作の最後が、しかしそこに対する答えでは無く、それがあることそれ自体を提示して見せたのは、実は一番誠実な着地だったように思う。

・今作を象徴するセリフは、作中でアビーが市長に向かって言う「あなたは認めたくないだろうけど、もうそこに人が暮らしているのよ」だったと思う。
└今作はまさに、結果としてそこに人が住んで生活になっている時に、それをどう受容するかの話だった。
→その意味で今作は三部作の中で一番行政、生活の話だったように思うし、なんなら共生のための話だったように思う。

・なのでこの映画は三部作の中でいちばん団地での暮らしの狭さ、暮らしづらさを描いていたように思う。
└印象的なのが狭い階段。冒頭の葬式のシーン、死んだ祖母を乗せた棺桶を階段を使って下まで運ぶ姿が長い尺を使って描かれる。
 これはその葬式に参列する孫の代までを描く事で、移民!移民!と言ってももうそこに三世代で住んでおり、もう暮らしの場になっている事を描くと同時に、棺桶の運びづらさを描く事で、暮らしの場になっているにも関わらず、そんな風に暮らす=大家族で大人数が暮らすことを想定してその場所が作られていない事を表わしている。
→それがほぼこの作品で描かれた問題の全てだったように思う。

・その問題に対し、それぞれがどんなスタンスで向き合うかが描かれるのだが、かなり行政的な視点で、解決策を見出そうとする人たちの姿が描かれていたように思う。
└入ってくる家族たちの管理、相談を受けているアビー、その団地自体を改築し暮らしているイスラム系の人々を少しずつ排除しようとする市長、市長の側近としていることで
 なんとか折衷案を模索する副市長。
→今作、排外主義とそこから生まれる憎しみを描いた作品でありながら、誰か特定のキャラクターを憎い!とは感じない作品になっていたように思う。
→それは今作が、それぞれの立場を共感できるように描いていたからだと思う。

・今作で言うと市長が一番の敵役であると思うが、まず彼はあまりその団地の事情を分かっていない人物である。
└その意味で言うと、今作、この市長が団地の問題とちゃんと正面から向き合うまでの話だったように思う。
└前市長が亡くなり、一番クリーンだからという理由で市長になった彼は周りに流されるまま、ただパッと見た住民・街の印象を見て次々に強硬な政策を打ち出す。
→しかしそれは彼がその政策をとるとどうなるかを想像できない人物だからであることがちゃんと描かれる。
 映画全編で描かれる団地の人々の暮らしを市長は見ていない。

・そこに対してちゃんと言葉を武器にするアビーが、選挙でそれを覆そうとする。
└ちゃんと政治から変えて行こうとするアビーと、怒りを暴力で表わそうとするブラズが対比される。
→釈放されたアビーを迎えに来たブラズ。二人が団地の再開発の看板を燃やすシーンがとても印象的。アビーにとっては恐らく、その計画自体を変えたいという炎であったが、ブラズにとってはそれはより憎しみの炎になってしまう。ロマンチックなシーンでありつつ、この問題に対してのスタンスがふたりの間で大きく変わった事を示すシーンでもあった。


・異なる言語を使う人同士が会話しようとするが言葉が通じない、分かる人同士で会話をしてしまうという状態は最近観たドイツの映画『ありふれた教室』でも登場した。どちらの作品も移民を受け入れている国が舞台で、ある意味その場所自体に垣間見える社会の縮図を描いていたように思う。
└どちらの作品も、その舞台になる場所の〝秩序〟を保とうとする動きの中にうっすらある差別意識・偏見を描いていたように思う。
└またどちらの作品も問題は解決せず、対話し続ける姿勢のみが残されたように思う。そこに対峙するのはどちらも女性である
・イスラム系の移民は排除しようとするが同じ宗教であるシリア系の難民は受け入れようとする
・アビーの視点から描かれる団地の様子はジャリん子チエとかを連想させる。