ヤマダタケシ

あんのことのヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

あんのこと(2023年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

2024年6月 武蔵野館で
・「どうすればあんは死なずに済んだのだろう」「自分があれをしなければあんは死ななか
ったのではないか?」作品の中で特にあんと深く関わった二人、刑事と新聞記者のふたりはそれを思う。特に自分があんな風に関わりを持たなければあんは死なずに済んだのではないか?という後悔を持つ。
刑事は、自分があんに希望を持たせたせいで、その自分が積み上げた希望を自ら壊してしまったから自殺したのではないか?と告白する。
新聞記者は、自分が刑事の性的強要を告発しなければあんは繋がりを失わずに相談できたのではないか?と考える。

・この後悔・逡巡は終盤、彼女が自殺をしようと開けた窓に映るブルーインパルスを観た時に観客の元にも訪れる。
└コロナ前からコロナ初期を描いた今作品において、これがいつの出来事なのかは画面に映るもので明確に示される。
 特にコロナになってからは、自粛を呼びかける放送やダイヤモンドプリンセスのニュースが観客にリアルにあの時を思い出させる。
└と同時に、画面に映るブルーインパルスが、特に「その時にこれあったなぁ」という実感を観客に与えていた気がする。
 それは実際に見上げていたかは別にして(自分も生でブルーインパルスは見ていない)、ニュースで観たりした事によって、(東京に住む?)多くの観客にとって自分も同じように見上げていた実感のあるものだったと思う。
→そしてそれが実感のあるモチーフだからこそ、あそこで決定的にあんの生きた現実と観客の生きた現実がリンクする。
 あの時自分がどんな風にすごしていたっけなぁと思い出すと同時に、「うちで踊っていた」僕らの隣で、ひとり静かに消えて行った少女が居たことに気づかされる。

・そして、隣にあんが居たかも?に気づくと言う事は、自分の隣に居たかもしれないいくつものあん=コロナ禍で生活が追い詰められ、他とのつながりを失った末に絶望した人々、に気づくことでもあった。
└そうなった時に、観客と登場人物のふたりのが思った事に重なる部分が出てくる。
 つまり、「自分がどうすればあんは死なずに済んだのだろう?」という問いである。
 この問いを持たせること、問いの部分で終わることがこの映画を観終わった後に残る物だし、そのことをずっと考えてしまう映画だったと思う。

・あんはどうすれば死ななかったのか?
 この映画を観ていると、あんが死んだことに対して安易な自己責任論を持ち出すのがはばかられる。
└少なくともあんという少女は、彼女自体が選んだことの結末でこうなったのでは無い。
恐らくこの事件を簡単に書きだすと「覚せい剤を使いながら売春をしていた少女が自殺をした」というものになってしまい、そこだけを見るとまじめに生きていない人間が自殺しただけに見えてしまう。
→しかし、この映画を観ていると、あんという少女が自分を大事にして生きて行くのが難しくなる程の環境の中で、なんとか努力している姿が描かれる。
└あんという少女がとても素直に人と接することができる、というのがこの映画を観ているとよく分かる。
 あんを大事にしないひとたちの中に居た時の彼女は自分自身を大事にしない。
 しかし、刑事と出会い、あんのことを気にかける人々の中に居ると周囲の人に対して気にかけることができる人物であることが描かれる。
→それはあんを演じた河合優美さんの演技でとても丁寧に演じられていた。売春をしていた時のうつろで、下から睨むようなまなざしから、表情があり、周りを気に掛けるようなまなざしへの変化、それが演じられていたように思う。
→特にそれは何気ない関わりのシーン、車いすの老人との散歩や子供に話しかけるシーン、学校の給食での会話などで現れていたように思う。
└恐らく、彼女自体はとても素直な人間であり、人からの優しさにちゃんと返すことができる人であった(だから母親の暴力から自分を守ってくれた祖母にケーキを買って帰るし、祖母のために家に戻ってしまう)。
 それに基本的に人にやさしく接することができるのだと思う。だからこそ老人ホームや学校を新しく自分のつながりにすることができた。
 老人ホームに母親が乗り込んできた時に、施設長があんを守り、ここに居てほしいと言うが(母親とあなたは別でしょ、のセリフがめちゃいい)、それは彼女が真面目に働いて、その場所の一員になっていたからこそ出る行為だったとも思う。
└つまり彼女がまともな選択していなかったからこうなったのでは無く、むしろやっとまともな選択ができるようになった矢先に死んでしまうのである。
→しかし、この映画を観て彼女の努力を見ていると、刑事と新聞記者、そのふたりが自分が関わらなければ、と思ってしまうのも傲慢な気がする。それくらいに彼女は自分で自分の人生を組み立て始めていた。
 ただ、同時にコロナ禍での孤立が彼女をあの状況に追い込んだのだと思うし、もっと大きな意味で誰かが彼女と繋がっていれば、助かったのかもしれないとも思う。
└コロナ禍はただでさえみんなが孤立化した時期ではあったけど、そこを生き延びられるかどうかには経済的余裕・それまでの人とのつながりがあったような気がする。
→そしてそれが全てだとも思わないが、自殺するシーンで飛んだブルーインパルスには、コロナ禍の絶望の中で、国が彼女にした唯一のことが飛行機を飛ばすパフォーマンスだったことへの皮肉もあったと思う。
 もちろん個人個人がどうやってあんと関われたか?もあるけど、大きくは国・行政のシステムは彼女にどう関わったのか?というのがあるとも思う。

・最近の入江悠は『ギャングース』『シュシュシュの娘』あたりから、マジョリティにとっての当たり前の現実がとんでもなく地獄であることを描き続けていると思う。それは今作にも当たる。
└思えばサイタマのラッパーシリーズから北関東を描いてきた監督は、ある意味で東京と
いう中心に対する周縁のリアリティを描いていたと思う。ギャングース、シュシュシュ
はまさに、その北関東のリアリティと差別や貧困を描いていたと思うが、今作は、ある意味東京という中心の中にいて、それでも中心から弾かれてしまった暮らしを描いていたと思う。
・ブルーインパルスは絶望の底から〝見上げた空〟に映る物でもあったと思う。自殺するあんの目に、ブルーインパルスが映っていたかは分からないが、絶望した彼女がシャッター商店街から空を見上げるシーンに『㊙色情めす市場』を思い出した。どちらも親から売春させられ、覚せい剤で現実を誤魔化しながら暮らす女性が、そこから抜け出そうとするが上手くいかない話であったと思う。
 今作は明確に抜け出そうとして彼女の足をコロナ禍が引っ張る。
・ラストが、あんが助けた子供の母親だったことについて。少なくともあそこが新聞記者、刑事の男二人では無く、彼女で終わる事によって、この映画を、男が死んでしまった女に何ができたのだろう?と考えるような構図にしないようにしていたと思う。
 また、男たちが自分がしたことのせいであんが死んだのでは?と語る一方、子供の母親はあんにしてもらった事を語っていたのが印象的だった。