「ジョーカー」の撒き散らす「悪」というか、社会そのものの「悪」の残酷さに対して、人の心を失いそうだったので、本作によって取り戻した、みたいな感がある。
とりあえず、予告編などで流れる情報からは逸脱せず、ストーリーも予想通りの展開。
だからといって、退屈かといえばそうでもなく、むしろじんわりとずっと泣いていた。
本作の魅力は、その「予定調和」をじっくり丁寧に見せていくところにある。
ずっとこれまでのレビューでも書いている通り「男性告発」的なメッセージでフェミニズムを叫ぶ言論も嫌いだし、それに則った映画も嫌いだ。
ただ、無自覚的なミソジニーをそのまま画面にぶつけた映画があまりにも多過ぎて、そのバックラッシュとして近年になってようやくそれらの作品が増えてきた背景というのは理解はできる。
理解はできるのだが真の「対話」からしか、その分断は生まれないからこそ、男性には「聞く耳」をまずところから始める必要があるというのが僕の立場。
という意味で、本作はその「入口」に過ぎない僕ら男性にとっては、語り口は優しい(その上で考える必要は無数にある)。
まず本作は2人の女性主人公がいる。
ひとりはプール(ニターンシー・ゴーエル)。家庭に入り妻として夫を支えたい女性の尊厳と、とはいえその家庭によって自分を抑圧する必要もなく、そうでない女性の立場、あるいはその世界の広さを知っておくという物語がある。
そして男性による支配としての「結婚」あるいは、学びの意思や社会進出への意思が尊重されない状況に対してのジャヤ (プラティバー・ランター)の物語。
この2つの物語を「結婚」というイベントを通してスマートに取り入れている。
そのストーリーテリングの巧みさがあればこそのこの「素朴な物語」が活きてくる。
またその「さりげなく」芯を食った描写と思えるのがディーパク(スパルシュ・シュリーワースタウ)が、恐らくそこまでプールとの関係性が深くない割に、行方不明になってから酷く落ち込んでいる点。
プールはマンジュ(チャヤ・カダム)やチョトゥ(サテンドラ・ソーニ)との交流という新しい体験の中でそれなりに逞しく生きている中で、ディーパクは感情を持て余すのみ。
それはマンジュが作中で語るように「女性にとって男性は必要ない」という言葉の意趣返しで、男性にとっては女性は恋に落ちることにおいても時間が必要ないという性差が表現されている。
「新しい価値観」というと忌避感を示すような言論というのはどこでも出てくるが、本作が丁寧なのは、その「アップデート」的なメッセージを前傾化させないだけでなく「伝統的」な価値観の普遍性を「人情」によって掬い上げている点。
さりげないところで言えば、本作で最も「進歩的」なキャラクターであるジャヤが酔い潰れプールに恋焦がれ憔悴しているディーパクの為に一肌脱ぐちょっとした自己犠牲の精神。
そしてそこからの悪役と思われたマノハル警部補(ラヴィ・キシャン)による大逆転劇。最後の最後に美味しいところを持っていく。このキャラクターに説得力を持たせるところに演出力が確認できる。
ベタベタで意外なところがまるでない映画だからこそ、映画の素朴な魅力が詰まっている。
つまり何が言いたいかというと、嫌なことばかりのこんな時代にとって一番大切なのは「人情」だということだ。