のすけ

勝手にしやがれののすけのレビュー・感想・評価

勝手にしやがれ(1960年製作の映画)
4.1
「À bout de souffle」1960年

監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール
原案:フランソワ・トリュフォー
出演:ジャン=ポール・ベルモンド
   ジーン・セバーグ

 ジャン=ポール・ベルモンド演じるミシェルの自由気ままで無鉄砲なまでの行動がどこか気持ちよく、現代社会にもあるなんとも形容しにくい閉塞感を紛らわせてくれる。

 1950年代のフランス社会はどのような空気感であったのだろうか。戦勝国でありながら植民地の解体、アルジェリアでの戦争などの問題を抱え、若者たちの中で報われない閉塞感のようなものが存在していたのだろうか。それとも、どの時代もどんな社会でも若者は社会に反抗したくなるものなのだろうか。とにかく、ミシェルはそういった社会に歯向かう若者の象徴のようである。定職を持たず、その場しのぎで小銭を稼ぎ、盗んだ車であちこち行きまわる。

 ヌーヴェルバーグの中でも有名な今作はヌーヴェルバーグらしく、ロケ地での撮影が多く、カメラもフィックスではなく、即興演出だからなのかその場で起きていることをその都度カメラで追いかけているようだ。多用されるジャンプカットは独特のリズムを生み出している。無言である場面、それ以上見せても意味がないシーン(車に乗り込みその車で走り出す場面であるとしたらその間のエンジンをかけたりする部分など)を大胆にカットすることでスクリーンの中の退屈な瞬間を排除している。そうすることでセリフが断続的に矢継ぎ早に飛び交い、スクリーンの中で盛んに動きがみられることになる。それらの結果として非常にテンポの良い、独特のリズムのように感じられる。しかし、これらは逆効果にもなりえる。それらのジャンプカットは定期的に、それもかなりの頻度で私たちの意識を切断してくる。スクリーン内でのミシェルの動きを追っていると、突然パッと映像が変わる。また、セリフにおいても一つのセリフが話された後、私たちは次はどのような事を言うのか、また相手はどのようなリアクションを取るのか、構えるのだが、そのような考える間は与えられず、次のセリフに移ってしまう(これはそもそも早口で話されていて、間など存在しない場合と、本来あったであろうはずの間を削がれることは全く異なる)これらのようにして、私たちの意識は度々切断され、物語に入り込もうとする度に物語から追い出されるような感覚になる。

 またミシェルとパトリシアはある意味で対照的な存在として描かれている。パトリシアは作中でミシェルがそう指摘していたように臆病者であるのだ。彼女はミシェルを魅了していながら、ミシェルとの逃避行を恐れ、ミシェルのことを通報する。二人は互いに恋に落ちていたようで、互いに自分のことしか頭にない。それはむしろ自己愛であった。二人がパトリシアで話すシーンなどは象徴的だ。二人の会話はまったくかみ合っておらず、それぞれが話したいことを話しているだけといったような状況であった。
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