水野統彰

東京物語 4Kデジタル修復版の水野統彰のネタバレレビュー・内容・結末

東京物語 4Kデジタル修復版(1953年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

このレビューはかなり主観的な考察を含むから相当に本質とはかけ離れてるかもしれないことをご理解いただきたい。

まず小津安二郎がこの作品を通して伝えたかったことがあるとするならば、それは未来への少しの希望と惜別の想いという、どちらかというと感傷的な思いを家族というテーマにのせた作品だったと感じた。

東京物語は映画史に残る名作と言われるが
、それは時代考証や考察があって初めてその真意が分かる。
時代考証なしに観た場合は淡々と日常が進むだけのただの記録フィルムでしかない。
その場合の「面白くない」というのはもっともな意見である。

さらに不思議なのはこの作品を「家族愛や家族観の変遷」という視点で見ても面白くない。

ネタバレを多く含むがこの考察が作品への面白さへとつながることを祈る。


・時代考証
この映画が公開された1953年といえば、戦後復興がいよいよ本格化した時代で、1964年のオリンピック開催をはじめとしいよいよ高度経済成長に差し掛かる時代である。
(高度経済成長期は1955〜1972)
オリンピック、第三次産業の興隆は煙突から立ち上る黒煙をはじめ、ブリジストンの文字などからも見て取れる。

父母の暮らしていた地域が尾道というところも1つの注目点である。

尾道は広島県で被爆地からは離れたところにあるが、それでも原爆の被害にあった広島と東京を繋いだのには意図を感じざるを得ない。

作中に「戦争はもうあってはならん。」というようなセリフが1度だけ出てくるが、あとにも先にもその一度だけである。

次男が戦争で亡くなったことは何度も触れられるが、むしろ父母はその嫁に頑なに「忘れてもええ。あんたにはええ人がおる。」と勧めている。
これは戦争への恨みより先に進むことの象徴と見て取れる。

よく「戦争の記憶は失われる」というが、この作品にはそれへのアンチテーゼはない。「こうして薄れてゆく。」というある種人間の本性そのものを描いた描写だった。

・バスツアー
東京に出てきた父母はバスツアーに乗るが、父がやや微笑んでいるのに対し母は見る気もしない、といったような表情がうかかがえる。
もともと体調を悪くしやすかったからというのもあるかもしれないが、
ここにもなにか「未来への躍動感」と「
時代の喪失」という対比が見て取れる。


・三人の女性が織りなす個と現代への移染

一人ひとりの女性が各年代においてそれぞれのアンビバレンスな意識を揺動しながらも共存させている心理描写が非常に繊細だが分かりやすい。

実際、葬儀のあとの3人の女性は

1人がピュアに家族愛を語るのに対し、
「私は葬儀の後に形見の話だなんて悲しい」(古い時代の家族観)
1人は失いつつある心情とこれからなりうる姿を受け入れ、
「みんな自分のことで忙しくなるのよ。私もいつかそうなるわ。」(価値観の狭間)
1人は都会の忙しなさの中で最大限、父母に労う言動
「私はお店も任せてきちゃったから先に帰るわね。」(現代への移染後の価値観)

台詞に分かりやすく表現されている。

・熱海
熱海は如実に西洋化と現代化の象徴的シーンとなっている。
ややもすると意地悪に見える姉が熱海に追いやったわけだが、そこでのんびり過ごすはずの時間は若者の馬鹿騒ぎによって一気に壊される。

母の急逝、町医者でしかない息子に対する父の苦悩、考察に値する点は多々ある。

・なぜ評価が高いのか
この映画の評価の高さについては他の考察者のように一つにカメラワークの独特さ、そしてもう一つに日本の家族観を如実に、しかし繊細に映し出した表現技法が西洋文明にとっては衝撃だった。カメラワークについては素人だから意見を控える。

繰り返しになるがこの作品は時代考証なく見ればただの一家族の記録フィルムだ。
それがセリフやカメラワークによって作品となっている作り方に小津安二郎の才覚が光るといえばそうなのだが、

こうした繊細な描写に対する考察が数多できるにも関わらず一切主張がない。時折明確な台詞として現れることはあっても、それもすぐに立ち消える。

日本人にしか分からない
「繊細さ、侘び寂び、儚さ」という言葉を凝縮した作品だった。

それが西洋でも評価されているのは、一見してわからないが考察を踏まえれば一気に厚みを増してくるからではないか。

社会的なテーマや問題意識はいらない。
ただ、刻々と移り変ゆく儚さを感じる映画である。
水野統彰

水野統彰