花火

広島を上演するの花火のネタバレレビュー・内容・結末

広島を上演する(2023年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

『しるしのない窓へ』
川の水面に、その向こう岸に立ち並ぶ団地の建物が反射して写っている。それがある時、天地が逆さまになって画面に映し出される。岸辺に座る二人が詩を朗読する。「光は知りたかった、どれが本物で、どれが本物でないのかを」。凄いことが起こっているとしか思えない事態。あとは洗濯物を取り込んで疲れたのか横になって眠った女性の顔に窓から光が差して目覚めると、慌てて火をかけたままの鍋の様子を見に行く場面が好き。そして最後の、テーブルに置かれた詩を朗読していたかと思いきや初見のはずなのに気がつくとそれを見ずに朗読し始めており、その空間を見つめる人のカットを挟んでいつの間にかそこに居たはずの人が消えている。というカットの連鎖に戦慄させられる。

『ヒロエさんと広島を上演する』
大部分が、窓越しに見下される広島市街の風景と、そこに被さる老女の声という場面で構成されている。時折窓を背にして逆光でシルエットだけが写される発話者の姿が正面構図で捉えられる。語られる内容とその声の固有性と、黒子のような話者と画面に映る街の風景の匿名性とが交錯して、集団的な記憶さえ呼び起こされるような感覚。

『夢の涯てまで』
ファーストショットには立ち並ぶ木々と砂の地面が写る。波の音が聞こえるが、海は写っていない。あるいはスマホに向かって吹き込んでいるアイスランドの精霊の話は、見えないことは存在しないことではなく、ただ見えていないだけなのだということが語られる。ラジオの音声も見ることのできない、○年前のその日の出来事や別の地域の天気を伝えている。あるいは反対に、広島に行っても何も見つけられなかったと日記に記される。しばしばよしみさんの傍らに佇む男性は、彼女が夜振り返ってもそこには無人の椅子しか無いように、二人の視線が交わることは無い。けれどもそこに居ることはスクリーンを見つめる観客には分かる。見えなくてもそこに在る、ということがこの僅かな尺の中に満たされている。その点において、親友二人の間の特殊なコミュニケーションがもたらす帰結と演出という不可視が俳優の身体という可視にどのような影響を与えるのかを探る『王国(あるいはその家について)』から地続きの内容といえる。
電車から降りて本屋に向かって歩く、机に向かって絵を描いている、その夜の暗さの中にある後ろ姿がいい。

『それがどこであっても』
完全にキャパオーバーになってちょっと覚えてない。確かすごい高額なものだったはずのダミヘをそんな風に扱って大丈夫なのかしら。
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