この映画は、恐らく尺が1時間ぐらい少ない。入江の言わんとしていることを表現するためには、その描写が著しく欠けている。つまり、不完全な作品だ。
まず、簡単にストーリーを述べるとこうだ。
最悪な家庭環境に生まれ落ちた杏は、覚せい剤の自助グループを主催する刑事や、その仲間たち、また週刊誌の記者などと交流を始めた。その登場人物たちは、それぞれに「善良さ」を持ち、同時に「弱さ」を抱えている。そして、彼らが生きる社会も、パンデミックによって機能不全を起こすほど脆弱なものに過ぎなかった。そうした「弱さ」が偶発的にも重なり合い、不条理な悲劇へと繋がっていく。
もちろん、入江がこうした筋を念頭に置いていたかは分からない。しかし、もしそうであるならば、この映画は群像劇になっていたはずだ。なぜなら、「杏の自殺」という悲劇への始点は1つではなく、上記した通り、現代社会に偏在していた「弱さ」の偶発的集積であり、それが結果的に「最も弱い者」に襲い掛かったのだから。だからこそ、杏の身に起きた出来事を時系列的に並べたところで意味がないのである。
すると、この映画に必要なのは、杏以外の登場人物に対する丹念な描写だ。それがないために、杏に感情移入している観客からすると、他の登場人物たちは、杏を不幸にした理解不能な「悪役」に成り下がってしまっているのである。
果たして、あの刑事は強姦を犯していたのか?犯していたのなら、それはなぜなのか?また冤罪であるのなら、なぜ被害女性は虚偽のリークをしたのか?さらに、杏に子供を押し付けた女性も謎である。彼女は、どんな事情を抱えていたのか?そして、週刊誌の記者。彼は、なぜ自助グループの崩壊を予見しつつも、リークに加担せざるを得なかったのか?
そこには、恐らく誰をも逃れられない「弱さ」があった。
事実を元にしたストーリーとは言え、そこは創作であれ分厚くするべきだったと思う。もしも、描けるほどの情報がなく、創作にも抵抗感があったならば、そもそも題材にするのを考え直すべきだっただろう。中途半端に描いておいて、「現代の曼陀羅」と思っているならば、きっと死者が浮かばれない。