今更ながらではあるが、「映画は鑑賞者を選ぶ」。というのも、この映画を私は”楽しく鑑賞した”。しかし、それが故に”正しく鑑賞した”かは甚だ怪しい。それは偏に、私は日本で暮らす、日本人に過ぎないからである。
この映画は(多くの解説で明らかにされている様に)様々な名作品のオマージュに彩られているという。『地獄の黙示録』や『プライベートライアン』等の戦争映画、または60年代のアメリカンニューシネマ。それに加え、秀でているガーランドのテンポ感や構図切りのセンスが相まって、「戦争映画の最良の部分の詰め合わせ」と私に思わせる。
そこに拍車を掛けるのが、内戦や登場人物に関する情報の希薄さだ。劇中、なぜ内戦が起きたのかや、それぞれのパーソナリティはほとんど開示されない。そのため、いよいよ「アメリカ内部で起きた紛争」という衝撃的な設定は後方へ退き、前述した「抽象化された戦争映画」という印象が強くなっていく。だからこそ、私は”楽しく鑑賞”してしまった。
しかし、翻って見れば、この情報開示の希薄さは、現実に起きているアメリカの分断と一致させないための制作者の配慮だろう。それは、登場人物の情報に関しても然り。それぞれの政治的信条に言及すれば、この映画がどちら側からの主張であると受け取られかねない。つまり、分断を助長する。だからこそ、あくまで「スクープをモノにしたいジャーナリスト」という、個性としては希薄ではあるが、中立の立場を設定したのである。
言い換えれば、そうした配慮をしなければいけない程、今やアメリカの分断は深刻化しているということかもしれない。確かに、来月に迫った大統領選挙は、民主党候補が支持率で優位に立ってはいるが、それは前回の議事堂襲撃事件再来の予兆とも言える。それは、投票日が刻一刻と迫るアメリカにおいて、国民一人一人の中で切実な問題として迫ってきているのだろう。
だからこそ、私が、この映画を”正しく鑑賞した”かは甚だ怪しい。優れた映画は、鑑賞者に良い意味でも悪い意味でも「心的外傷」を残すというが、正直私はこの映画から「心的外傷」を与えられなかった。しかしそれは、私が現在進行形で起きているアメリカ国内の分断を日本で暮らす日本人が故に、理解できていないためだろう。
ただ、この映画を「抽象化された戦争映画」と受け取った私にも、心に留まる要素はある。それは、ダンスト演じる女性カメラマンの変化だ。彼女は、国外の紛争地域で取材をしてきたフォトジャーナリストで、それは「国内の人々に対しての警鐘のつもりだった」という。それが故に劇中、友人の死をきっかけに、彼女は自身が”いちフォトジャーナリスト(傍観者)”ではなく”紛争当事者”であることに気付き、撮影困難となる。それが、自身が行ってきた活動に対する無力感からなのか、現状に対する純粋な絶望感からなのかは不明だが(ここはもっと描写しても良かったのではないか?)。いずれにせよ、このシーンは、この映画が「抽象化された戦争映画」ではないことを示す特異な要素だろう。
しかし、そんな彼女に代わって、若きカメラマンが大統領殺害の場面を活写する。しかも、前時代的なモノクロフィルムで。それによって、再びこの映画は「抽象化された戦争映画」の群れに埋没していく。