やくおせた

あんのことのやくおせたのネタバレレビュー・内容・結末

あんのこと(2023年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

タバコを敷地内ギリまで吸う多々羅、警察とタバコのあべこべな雰囲気は何故かデキる刑事を彷彿とさせる。なんの作品がそう思わせるか覚えてはいないけれど。
多々羅はギブアンドテイクを求めている節があった。困っている人を助けるのが公務員だろ、と。行きつけの店では、オヤジオヤジオヤジ、カレーラーメンいけんじゃんと話しかけるくらいに、多々羅もある節、人との繋がりに困っていたかもしれない。サルベージへの参加者を1日、1ヶ月、1年と通わせ、信頼させることで、見返りを求めるよう仕向けていたのかもしれない。
多々羅にとっても、女性への行為はある意味薬に近いものがあったかもしれない。薬の中毒者と同じようにそれを手に入れるために体を使って動いていたのかもしれない。多々羅が杏について語るシーン。自責の念。薬についてあれほど熱く気持ちを紛らせて語れることが、多々羅のどの部分と一致してそうできていたのかを考えると、なんとなく納得できた。多々羅も同じようにそういった行為から足を洗いたかったのかもしれない。

杏にフォーカスをすると、とにもかくにも環境が結末を産んだと思う他ない。生まれ落ちたその場所が杏にとって(どの人間にとっても?)地獄。せっかく地獄から脱出しても、介護施設の社長の不手際により、職場がばれる。コロナにより、職場・学校・思い出の店が休みになる。知らない隣人に子供を預けられる。そのせいで母親に見つかり、地獄に逆戻りする。母性が芽生えた頃に、子供を児童相談所へ報告される。何もかもが環境によって奪われ、生きる目的を見失う。
それでも杏そのものはとても強い。家庭はある種、ひとつの国だ。ここでの国の王様は母親。その母親に反逆して、自由を得た。もちろん多々羅の協力もあるが。今まで挑戦できなかったことに対して、それを取り戻すように挑戦をした。他人に押し付けられた子供だって、まるで母親のように育てることができた。薬の使用によって多々羅に取り調べされている際も、自白ができた。
ただ、母親に煽られても、包丁で刺すことはできなかった。これが杏の優しさだ。この優しささえ、環境(母親)がそうさせていると思う。他人に優しくすることは、母親の虐待が「虐待をされないように生きる=他人に気を使う」を選択させていることが原因だと思う。

入江監督の明暗の演出には度肝を抜かれる。杏が学校の電気を消すシーンやサルベージの電気を消すシーンは、コロナによるそれらの終わりを意味している。杏が自殺をする直前の飛べないカラスは不幸を演出する。また、杏が使用していたドリルは自殺のシーンで陽の光が差し込まないようになっている。杏が飛び降りた後、部屋から見た窓には陽の光が強烈に差し込む。ブルーインパルスが飛ぶ空と、飛べないカラスは杏のような生活を全く知らない幸福な人々と、杏のような人々の対比だろうか。それとも、窓の外は杏にとって救いだったという表現だろうか。

環境を言い訳にできない、そんな言葉を私は過去によく言われた。だが、それは環境すべてを知った人間の言葉ではないと思う。多々羅のように表では良い人を演じていて、裏では悪人だったりすることもあるし、その裏でさえ、複雑な環境が絡み合って想像された表の可能性だってある。環境とは一言でいうものの、それが何なのかは人によって全く違うものであるし、答えはきっとない。
恵まれていない人がいると考えることは簡単で、恵まれていない人を助けることはきっと簡単では無い。いや、もしかしたら私のほんの些細な一言で助けることが出来ているのかもしれないし、追い詰めているのかもしれない。それくらい環境は複雑だ。
私は杏のような人をどう救ったらいいのかわからない。多々羅が正解で、それによって環境は上手く回っているのかもしれない。
やくおせた

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