ニューランド

これで三度目のニューランドのレビュー・感想・評価

これで三度目(1952年製作の映画)
3.7
 ギトリの映画は、ベースの軽演劇的な所からの、どんくささや薄っぺらさも感じる。その点、本作は晩年作なのに、映画の何たるかを追及を怠らなかった若さ伸びやかさの成果として、驚くべき外内の真の意味の豪華・すきま風ないレベルに達してて、戦前の『夢を見ましょう』等と並び、最高の映画を実現している。いま正に映画そのもので、その代名詞で現在の映画界の中心として君臨しているC・ノーランの最も見事で鮮やか作、『インセプション』『インターステラー』をはっきり映画的に上回るほどの出来だ(空想の逐次現実化シーン等の見かけだけでなく、本質のあるキレ等の面)。飽くなき前進性、目に見える進歩は捨てた、ルノワールを上回るか。
 「恋愛は、観劇などと同じで、一回こっきり、二度と繰返し嵌まりに向かわず、想い出だけとするべきもの」という主張に併せて、DIS・WIPE・IRISも埋め込み、場所・時制・説明などを視覚的にも何重にも行き戻りし・また超越した呼応や警戒予知で響きあい溶け合う置き方・連ね方をし、相対的で中心を掴むを拒んだ構成力の見事さを極め、内容的にも、セックスをストレートに話題・主題にもする大胆さで、女は正直な性で、不満と欲求をストレートに表すだけで、結婚してはっきり夫と変わる男の性は、様々な体面や地位におかしい程にふりまわされるだけのもの、をクールに描き貫き通す。女が不誠実なわけでもないのに、必然偶然はそういった流れを作る。こういった先進性でも、この作家の最高点に達してる。
 劇場・邸宅・郵便局・ホテルの近さが、逢瀬や察知・交錯を異常に早め、詰め高める。脇の人間の絡む寄り入れ・(90゜変)切返し・ズレや近場の察知や呼応、の基本美学の、視覚・理解を、繋がり溶け合わせ一体化(テーマ的な関係性もそうだ)させるような張りと膨らみが随所に映画を究め(横パンや逆フォロー・縦に寄るらの流麗映画的移動挟む)や、過去を掘り何かが跳ね返ってもいる、他人の空似からの内面の差異・仕事のパートナーとしては認めてくれない事への見返し復讐心、これまで2度の妻寝取られエピソードの深奥と容易さへ入り込む披露からの意に反す後押し、らも併せて、中心の感覚的掴まえられなさが、映画的に限りなく美しい。終盤の逢引き時間の筈の夫の列車乗り遅れ、妙な時制遡っての急ぐあまりの舞台衣装侭での、枢機卿に扮しての戻り夫への説得、の偶然を使っての、クライマックスや大?団円も、これぞ映画的天才的なやっつけ仕事ぶりで、ふてぶてしさと儚い美しさを醸し出す。
 歴史物以外、いつもは安っぽい美術・装置・セットと、片側は半ば人が隠れてる図の90゜変切返しや・同じ俳優の1人二役がカット間対応らが何の違和なく、同居し、繰り返すが、二つの場所または時制が近接と拡がり感じさす対応や呼応を意識の内外で処理、いつ知れず舌をまくしかなく、また美と特殊調和を感じるしかない。撮影は、バシュレか。
 ただ、かように映画としては、現役頂点のノーランを今風な見方からでも上回るほど見事たが、個人的には田舎者を抜け出てないので、どんくさく手にとれる物のほうに、愛着を感じるたちだと云うだけの事だ。あまり、映画的な、その方向で見事さこの上ない作は、特別好きにはなれない。20年前から、映画としては明らかに不足・不全だなの、『私の父~』の方が好きだ。
 ある都市での公演最後の夜、一夜限りの美しいアバンチュールを計画する座長主演俳優が、前日客席に見初めた貴婦人にアプローチをしてゆくが、その夫の寝取られ前妻(二人)の記憶を抱える宝石商の、他の浮気の過去も含めた、バランスや成り行きの覚悟性根を、必要以上に弄ぶ、偶然の気紛れも跳梁してく。
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