うえびん

ラストマイルのうえびんのレビュー・感想・評価

ラストマイル(2024年製作の映画)
4.1
私たちは何を欲しているのか

2024年 塚本あゆ子監督作品

想像していたよりも社会派のドラマでした。エンタメ性と社会派ドラマ性のバランスが良く面白かったです。

劇的でアップテンポな展開で、映画的な間が少ない作風なのに、何やらいろいろ想起させられたのは、監督と脚本家のセンスと職人技によるものでしょうか。お二人のドラマは観たことがありませんが…。

今の時代に私たちは何に呑み込まれているのか?時代と共に変わる世界情勢と人間社会の中で、気づかないうちに何に呑み込まれてしまったのか?

そんな問いが、頭の中を駆け巡ります。

自ら肌身で感じた経験から考えてみました。

今から約30年前、バブル崩壊間近にキャンプ場でアルバイトをしていました。そこで副業的に働いていた30歳前後のご兄弟の本業は、クロネコヤマトの宅配業で、とっても羽振りが良さそうでした。赤いトヨタ・ハイラックスサーフを乗り回し、社会人の先輩としてカッコよく見えました。

今朝は、子どもが車の免許証を取るために県の免許センターへの送迎です。高速道路を走っていると貨物トラックがやたらと目につきました。物が動いているということは、少しは景気が上向いてきたんだろうかと思いながら、幕張に向かいました。

羊運送のヤギさん(阿部サダヲ)。中間管理職ゆえの苦境に、物流会社を取り巻く社会・世界の変化、それにともなう逆境がリアルに感じ取れました。サノさん親子が立たされる苦境には、ケン・ローチ監督の『家族を想うとき』の父の姿が重なりました。

グローバリズムの波に呑まれた消費社会における市井の人びとの暮らしは、どこの国でも変わらないのかもしれません。

子どもを降ろしてから、時間潰しのために近くのイオンモールへ。そして、本作を鑑賞しました。巨大ショッピングセンターに溢れる物たち。その流通を支える物流業界。

流れる物の質も値段も変わりました。

昨日、職場で買った家庭用の洗濯機はAQUA製の物でした。あるスタッフは「AQUAってどこのメーカーの商品?」と問いました。旧三洋電機ですね。中国企業に買収されてしまいましたが。

ワタルさん(宇野祥平)の前職(hinomaru電機)に対する誇り、エレナ(満島ひかり)の日本語へのこだわりに、愛国心を感じ、憂国の念が湧きました。世界の中における私たちの国の経済的な位置は、かなり下がってしまいました。

生活に必要な物は、ほとんどが手に入り、メーカーは過当競争の波に呑まれています。私たち消費者は、安くて良いものを追い求め、生活の大半の時間を購買・消費活動に費やします。さらに、その活動の時間も惜しみインターネットでポチります。

Amazon社を模したデイリーファスト社の仕組みに、人間が社畜化される過程がリアルに感じ取れました。少数の社員と大勢の派遣労働者による巨大倉庫のオペレートには、クロエ・ジャオ監督の『ノマドランド』、苦情を受け付けるコールセンターの場面には、チョン・ジュリ監督の『あしたの少女』が思い出されました。

「全てはお客様のために」というマジックワードは、その企業で働く人たちの首を真綿で締め付けているように感じられました。その人たちも一方ではお客様(消費者)です。

いったい、私たちの社会はどうしてこのような袋小路に陥ってしまったのでしょうか。便利な物は増えたのに、誰も幸せにならないなんて…。

答えは一朝一夕に見つかりそうにありません。

パオ・チョルジ・ドルジ監督の『ブータン 山の教室』。消費社会が始まる以前の人間社会にそのヒントが見出だせるかもしれません。個人の幸せではなく、もう一度、人間も含めた山川草木、自然に立ち返って考え直してみることから。

そういえば、本作には山川草木の描写がほとんど無く、唯一、陽の光のみでした。

「あなたのほしいものは?」は、よく考えてみると個人の欲望への問いかけです。

本作から想起された問いを掘ってみると、イギリスや韓国やアメリカの映画作品を観て想起された問いが重なります。

“私”(個人)ではなく、私たち(国や共同体を同じくする人たち)が求めているものは何なのかを考え、見定め、それを実現できる社会へ、変革の時期は、すでに訪れているのかもしれません。

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『半市場経済』(内山節)


現代社会には三種類の経済が併存している。

第一は市場経済、第二は非市場経済、第三は「半市場経済」である。(中略)

社会はひとつの経済だけで営まれはいない。たとえば、資本主義が形成されても、それ以前とほとんど変わらない職人や街の商店の経済も存在するし、農民の経済の大半も資本主義的に営まれたわけではなかった。経済は常に複合経済として展開してきたのである。

といっても、その時代の主導的な経済は存在する。近代以前には農民や職人、商人たちの経済がこの時代を主導し、現代では市場経済が主導的な地位を確立している。だが主導的な経済の背後には、伝統的に受け継がれてきた経済や新しく創生された「異質」な経済が動いているのもまた確かなのである。(中略)

すべての原理は、単純な原理であればあるほど人間たちを飲み込んでいく性格をもっている。なぜなら、単純な原理は成果もまたわかりやすいからである。たとえば、金利1パーセントの銀行と2パーセントの銀行のどちらかがお金を預けるにはよいのかという単純な原理が示されれば、多くの人たちは2パーセントの銀行に預金することになるだろう。そういう行動を生み出す原因は、金利の違いだけではなく、お金自身が実にわかりやすい原理でつくりだされたものだからでもある。100万円て200万円のどちらに価値があるかということなら、誰にでもわかる。

市場経済もまた単純な原理によってつくられている。企業がめざしているのは利益の最大化であり、そのために実に単純なことが繰り返されている。たとえば、それは安く買って高く売ることであったり、利益率は引くても大量に売るとか、数は少なくても利益率を高めるためにブランド力を上げるといったことであり、実際にいまでも株や証券取引の世界では安く買って高く売る行為が繰り返されている。経費を削減することによって利益を増やそうとするのも、安い労働力によって製造しようとするのも単純な原理であるが、その成果が貨幣量というわかりやすい指標で表れるがゆえに、人間はこの仕組みに飲み込まれやすい。

だが、単純な原理に支配された社会にもたらされる結果は、社会の劣化でしかない。貨幣にしか価値が見いだせなくなることも社会の劣化であり、貨幣量を増大させるためにコスト削減などを繰り返していけば、社会全体が少しずつ劣化していってしまう。実際それがいまの社会でもあるのだが、気がついてみると自分もまたこの仕組みのなかで翻弄されていた、と多くの人が感じているのが現代でもある。そしてそれは、自分は市場経済のシステムに翻弄されていただけで、何者でもなくなっていたという感覚を呼び覚ます。

ところが今日の日本の社会のなかでは、市場経済だけでなく、非市場経済も、半市場経済も展開しているのである。そして、市場経済に存在のつまらなさを感じた人々は、非市場経済や半市場経済に関心を寄せるようになった。いまではどれほど多くの人たちが、あまりお金を使わない生活に憧れていることだろうか。(中略)

ところで、「資本主義は問題だらけだが、しかし次の社会は提起されていない。かつては社会主義という提起もあったかま、それに替わるものがつくられていない」。そんな意見を私たちはよく聞く。だがこの意見は、社会主義が未来の社会として語られていた時代の幻影でしかない。

社会はそのようなかたちでは変化していかない。そうではなく、ひとつの時代のなかで育まれていたものが次第に力をつけ、それが主導的な役割を果たす時代が生まれたとき、社会は変わっていったのである。

資本主義の成立も同じだった。それまでの社会のなかからマニュファクチュア的工業や資本的商人が発生し、それらが力をつけて社会を主導するようになったとき、資本主義は成立していた。今日の一般的な企業形態である株式会社というかたちも、その始原は大航海時代までさかのぼる。古い時代のなかで育まれていたものが、新しい時代を領導したのである。

とすると、今日の市場原理だけに従わない新しい経済モデルの実践は何を意味しているのだろうか。それは大きな社会変革の萌芽なのかもしれない。逆にそのような力はもちえないのかもしれない。

なぜそのような曖昧な言い方をするのかといえば、社会変革へとつながっていくのかどうかは、この動きがどこまで広がっていくのかにかかっているからである。社会変革は実践を通して生まれてくるものであって、評論風に語るものではない。(中略)

市場経済とともに展開する現代世界のあり方に限界を感じた人々が、いま社会の奥で新しい胎動を開始している。
うえびん

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