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トラペジウムのSQURのレビュー・感想・評価

トラペジウム(2024年製作の映画)
4.0
私のための映画だった。面白くないと感じたのならきっとあなたのための映画ではなかったのだろう。いいえ、そうではない。きっとこの映画を観てイライラしたり不快になったりしたあなたのための映画でもあったのだ。

この映画を観ていると、どうしたって自分と重ねてしまう。私自身もなんだかわけわかんないなにかに突き動かされて周りの人に迷惑をかけ続けてきたから。この映画を好きになった理由がそういった私自身の来歴と無関係なんてありえない。他の誰が理解不能だって軽蔑しても私だけは東ゆうのことを理解してあげなきゃと思っている節がある。

なにを描き、なにを描かないか。綿密に計算された巧みな映画だった。
特に顔、表情に対するこだわりがすごい。ただ笑ってるとか、ただ悲しんでるとかじゃなくて、観ている側が読み取ろうとすればするほど、彼女達の複雑な感情の奥行きが見えてくるような狂気的な描き込みがされている。
表情に対する表現のこだわりは、この映画自体を読み解く際に一種のアナロジーになる。「顔という直接見える部分から、心情という直接見えない部分を探っていくことで1人の人間の全体性に近づいていく」ということは、この映画を観ることそのものだと言える。直接見える部分=映画の中で映される時間と、直接見えない部分=映画の中では映されない時間があって、観客は映される部分から映されない部分を想像することで、そこに生きている彼女達を理解できる。映画を能動的に観ようとすることでこの映画を十二分に味わい尽くすことができる。ただ漫然と観ているだけだと「なぜ彼女たちは東ゆうについていこうと”決めた”のか」とか「なぜ東ゆうはアイドルになりたい、なって欲しいと思うのか」とか「東ゆうは他の3人を実際どう思っていたのか」とか、気がつかないまま通り過ぎてしまうかもしれない。

トラペジウムとは作中何回か映されるオリオン星座の配置であるとともに四辺のそれぞれが平行ではない四角形のことだと言う。決して整っているとは言えないし、不格好な四角形だが、それぞれの辺が繋がりあっていることでそれは四角形として成立している。トラペジウムにおいて、不必要だったり不適切な辺はひとつも存在しない。そういった四角形のあり方は、作中で東ゆうの母が東ゆうにかけるダメなところもいいところも全部ひっくるめて肯定してくれる言葉と呼応している。

東ゆうが没個性で1人だけ人気出なくてでもみんながアイドルとして輝いてくれてること自体は嬉しいからなんにも言えないしとにかく私が頑張るしかない!と思い直す過程が全部台詞じゃなくて映像で表現されていく。もし東ゆうが東ゆうでなかったらきっと向いてないなってなって一番最初に東ゆうがアイドルやめてたんだろうと思う。東ゆうは東ゆうでしかないから向いてるとか向いてないとかそういう次元はとっくに飛び越えていたし、彼女にとっては生きるべきか死ぬべきかの問題だったから、後に退く選択肢はなかった。そんな彼女に対して人間性を説くことは飢えて死にかけの人を前に食事のマナーを説くことと似ている。光明の見えない幼少期の環境から唯一見つけた光がアイドルだったのにオーディションは全敗でもうあとは死ぬしかないってところまできて賭けた最後の可能性が東西南北だったことを思えば映画内の挙動のすべてが当然に思えるし東ゆう以外の誰であっても他にできたことはないと思わされる。
彼女は劇中何度も頭ん中ぐちゃぐちゃになりながら「これでいい、これでみんな輝ける、これが最善なんだ」って自分に言い聞かせるようにノートを書いてきたんだろう。ライブのときの「みんなにも楽しんでほしい」って書き込みに彼女の閾意下の罪責感と友人に対する願いと優しさが込められている。

結局西南北にとって騙されてアイドルやらされたわけじゃない。「東ゆうは自己中心的で不誠実だけど好きなところもある」ではなく「自己中心的で不誠実なところも含めて東ゆうのことが丸ごと大切」なわけで、彼女たちは「人間として完全であること」を友人の条件にしてない。
映画の中では描かれなかっただけで、きっと3人とも東ゆうの瞳に見えているはずの輝きを自分でも見てみたくなったのだと思う。練習終わりに東ゆうが飲み物とか買いに行って席を外してる間に3人で「アイドルってさ……」「やってみると」「……結構悪くないよね」みたいな会話してたと思う。
「周りがいい人ばっかりすぎる」と言えばそれはそうなんだけど、そこには「友情って本来こういうものだよね(あって欲しいよね)」という理想があるわけで、アニメ映画のリアリティとしては大正解と思う。東ゆうが3人と友達になれたのは、どんなかたちであれ東ゆうが常に全力で生きようと必死だったからで、アイドルになる前から既にみんな東ゆうという星の眩しさに焼かれてしまっている。

この映画で、唯一批判したいのは、ラストのくだりだ。
映画を観終わったあとほかの観客の会話が聞こえてきた。「この映画を駄目だって思うのはきっとまだ大人になってないからなんだね」といったような話しぶりだった。その意見には私も同意したくなる。一人の「大人」として。映画自体にもそういう姿勢が見て取れる。
しかし、東ゆうという生き方が「成熟した視点」という社会的安定のもとでしか受容され肯定されえないと考えるのであれば、そこにはやっぱり少し逃げがあるだろうと思う。彼女の生き方はその不確定で不確かで暴力的でアウトオブコントロールなまま肯定され赦されてほしかった。そういった世界が有り得るのだという可能性を、映画には見せてほしかったとは思ってしまう。

また、『トラペジウム』は産業中心な社会と対立する個人の実存のテーマも扱っている。東ゆうはアイドル産業の被搾取者でありながら同時に代行者でもある存在として描かれている。車椅子の子がアイドル衣装を着られないのは作品に潜む無意識の差別感情では当然ない(東ゆうはそのときどれだけ「あなたもアイドルを目指すべきだよ!」と言いたかっただろうか?)。また、恋人がいるとわかったときに激昂した様子からは、単純にアイドル文化への批判としても読めるが、更には終盤で「恋愛することの幸せがいつかゆうにも分かる」という東ゆうのアイドルに対する狂信と写鏡のような発言が登場することで、あらゆる人間の価値観は本質的に狂信的で押し付けがましく故に東ゆうの思想も理解可能な範疇だと示唆してる。観客の多くは東ゆうを行き過ぎだと批判したくなるだろうし、女子高生が恋愛することを否定するなんておかしいと言いたくなるだろうけど、そのように考えること自体が東ゆうの生き様と幾分の距離もないという事実を浮き彫りにする。しかし、トラペジウムにおける恋愛vsアイドルの対立構造はあくまで彼女達のなかで相対的なものとして描かれそこに上下関係はなく互いに尊重し合えるものとして描かれている。もちろんその中ではこの映画を観てイライラしたり、主人公を貶したくなる人たちも含まれ、そういった声もすでに許容されている。そういうところからもほんとうに懐の深い、どこまでも優しさに包まれた映画だなと思う。

私たちは『トラペジウム』という映画の直接は描かれなかった余白に、無限に東ゆうの覚悟や仲間への信頼や友愛を、メンバーの覚悟や東ゆうへの信頼や友愛を、読みとることができる。そして読みとることができる以上、そうすべきなのだ。
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