アメリカ合衆国は19の州が離脱し、テキサスとカリフォルニアの主導する西部連合(WF=Western Forces)とフロリダからオクラホマを支配するフロリダ連合の3つの勢力に分かれていた。WFはワシントンDCに迫り、ワシントンの陥落は目前と思われた。伝説的女性カメラマンのリー・スミス(キルスティン・ダンスト)とジャーナリストのジョエルはホワイトハウスに乗り込み、14か月もインタビューに応じていない大統領へ直接インタビューをしようと画策する・・・
アメリカだけでなく世界中で深刻さを増す国内での分断をテーマに、内戦という最悪の事態が起きたらどうなるか?を描くディストピア映画。
事前の予想どおり、そこで見せられるのは、世界中のさまざまなところで実際に起きている敵と味方の選別、優位な勢力が劣勢となった側に行う処刑やそれに伴う無慈悲な暴虐の数々といった最も見たくない暴力のオンパレード。
とはいえ、ここで描かれているのはトランプ対ハリスのような現実のアメリカで起きている分断の実相とは違って、あくまで抽象的な、ある意味で古典的な地域間対立の様相のように見える。
大統領は“3期目”で、FBIを廃止したりなど、どうやら強権的な大統領であるらしいことは分かりますが、現行政府が実際にどのような政策をしていて離反した各州がどのような点で対立しているのかは殆ど分からない。
これは現実の分断に即してしまうと、それぞれの勢力の背景にあるさまざまな問題に触れないわけにいかないとか、特定の勢力への傾倒をネタにされてしまうといった実際上の問題があったり、おそらく製作者側としては内戦の様相を抽象的に描くことによって、もっと一般化した、アメリカ以外の国でも当て嵌まるような、理由はなんであれ、同国民同士が殺し合う程に深刻な内戦が起きた場合の“IF”を描くのが目的なのだろうと思われます。
それはコソボやクロアチア、スペイン、ソマリア、シリアなど枚挙に暇がないほどに、繰り返され、しかもそのどれもが人道的とは程遠い暴虐を伴っている悲惨なものです。
それぞれの“正義”を拠り所に敵に対して恣意的な処刑や虐待を繰り返し行うという点において、正規軍同士が国家の意思のもとに行う正規の“戦争”とは比較にならない。
この映画の中でもクレジットされていない“あの人”が「アメリカ人」か否かを選別する場面が登場し、そのことが生死を分ける異常さを強調する。
そうして見ると、ここで描かれているさまざまな出来事は悲惨極まりないこととはいえ、内戦のメタファーとして、現実世界より僅かながら1クッション隙間のある状態にあることが察せられて、ちょっとだけ安堵を覚えることができるのでした。
この映画はシビアな内戦の様相を描いているとはいえ、スタイルとしては戦場での報道に携わる者がいわば“特ダネ”を得るために無茶をする、というもうひとつのプロットで成り立っています。
リー・スミスに心酔する若いカメラマンのジェシーがスミスに会ったときに「下の名前がリー・ミラーと同じ」という。
リー・ミラーは第二次大戦に従軍した女性フォトジャーナリストの草分け(まだ何も告知は行われていませんが、1,2年のうちにケイト・ウィンスレット主演の『Lee』が日本でも公開されるものと思います)ですが、この映画のリー・スミスは碧眼の女性フォトジャーナリスト、メリー・コルヴィンのようであり、自身の大きなキャリアのおかげであらゆることに何か疲れたような、厭世的な空気を帯びている。
まあ、この映画で描かれるような現実に直面すれば、誰もがこのような反応を示すことはあり得るのですが、この映画に登場するジャーナリストたちはどこか現実味の薄い、取材の対象に対して特ダネの獲得以外の目的意識が希薄すぎという印象が無きにしも非ず。
ジェシーの経験値の低い初心者然とした当初の様子から一皮剥けた成長過程というところも、あくまでこの映画内でのジャーナリスト的成長と言え、伝えることに使命を見出す的ジャーナリズムの本懐というべきところとは距離がある。
これまで観てきた“戦場カメラマンもの”としての系譜と比べて、その点ではこの映画のジャーナリスト像は単なるヤマ師的に過ぎ、少々ガッカリポイントかな、という気がするのでした。
まあ、内戦の描写といい、ジャーナリストのキャラクター造形といい、やはりこの映画はあくまで現実に起きていることのメタファーであり、どこか斜に構えたニヒリズムというべきところに視点があるという意味で、製作者の意図するところは一貫している、といえるのかもしれません。
劇場を出て、現実の世界に再び目を向けると、映画の中で集約されたシビアな出来事は、(直接目にしないで済んでいるとはいえ)今でも世界中の至るところで起きている、という現実を直視しないわけにはいかないのでした。