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リアル・ペイン〜心の旅〜のbluetokyoのレビュー・感想・評価

リアル・ペイン〜心の旅〜(2024年製作の映画)
3.8
遅ればせながらって感じで見た。仲良し従兄弟、凸凹コンビによるちょっと脱線の愉快で痛快ロードムービーみたいな映画かと思って、ま、見るのはいいか、とパスしていたのだ。冒頭はややそんな雰囲気ではあるものの、全体的に、とくにドラマチックなことも起きないし、なにも変わらないし、カタルシスもなく終わっていく。ただ、このたんたんと終わっていくというのは、計算されたものではあるとあとで思ってしまう。
この映画のハイライトは、ユダヤ人大量虐殺を行っていた強制収容所の一つ、マイダネク強制収容所跡地を見学するシーンである。
ユダヤ人大量虐殺の強制収容所というと、なんかの記事とかドキュメンタリの映像とか見て、知った気になっていた。それは、非人間的な、なにかこうシステマチックな冷たい感じの大規模な施設なのでは、というイメージである。
実際は、ボコボコのコンクリの打ちっぱなし(ガス室?)とボロっちい木製の板張りの建物群からなっていたわけだ。意外にも(こういう表現は使ってはいけないのだろうが)温もりのある建造物なのだ。こんな場所で、日夜、大量虐殺をやっていたのか、という発見はちょっと衝撃ではある。
たしかに、カンボジア大虐殺やルワンダ大虐殺は、隣近所が虐殺現場になっていた。
もう一つびっくりなのは、ユダヤ人大量虐殺の強制収容所は、市街地の近くにあったということだ(まさに隣近所が虐殺現場)。
誰も知らない人跡未踏の僻地に秘密基地があって、そこで、ひそかに大量虐殺をやっていたわけではないのだ。

ただ、映画の中では、やはり、たんたんと過ぎ行くばかりなのである。なぜかというと、主人公のデヴィッドとベンジーにとっては、そうしたユダヤ人大量虐殺の強制収容所跡地巡りツアーへの参加は、たまたまであり、目的ではなかったからだ。
旅行の目的は、祖母のむかし暮らしていた家を見て来い、という祖母自身の遺言を実行する、ということだ。(デヴィッドには、副次的に、半年前に自殺未遂をはかったベンジーの様子を見る、というのもあったと思う)
ツアーに参加するというのは、費用も安いし、交通手段や宿泊場所などを考えなくてもいいし、ツアーを抜ける場合は、あらかじめ旅行代理店に申告しておけば、添乗員が配慮してくれる。

そんなデヴィッドとベンジーの二人だがキャラ設定がかなり考えられている。こんな人いるよ、じゃなくて、たぶん、一人の人間の中に、デヴィッドとベンジーがいるんじゃないかな。まあ、ふたりでもいいんだけど。たとえば、旅行の場合は、たいてい、ベンジー度の割合が上昇するのだ。だから、はっちゃけたりする。だが、日常では、デヴィッド度の割合が上昇して、常識人となったりする。

性格の違いだけではなくもう一つの違いは、うまくいっているか、うまくいっていないか、である。デヴィッドは、社会に受け入れられ、うまくいっている。ベンジーは社会からスポイルされ、うまくいっていない。

ベンジーは、つねに、社会の外側にいるんだろうな。だから、ツアーの企画のあり方に、反発したり、意見を言ったり、自由に行動したりする。
ただ、人は一人では生きていけないので、社会の中にいるというのも、現実なわけである。

とはいえ、そうして、人が作り出した社会は、凄まじい破壊と暴力を生み出すのも事実だ。
だとすると、ユダヤ人の大量虐殺も、過ぎ去った歴史的な事柄、ということだけではない。社会の中で暮らしている以上、現在の日常的な生活と地続きにあるのだ。

マイダネク強制収容所跡地の近くの市街地にあるホテルの屋上に上ったデヴィッドとベンジー。そこから、マイダネク強制収容所跡地の灯りがあからさまに見えるわけだ。ベンジーは、その灯りを眺めながら、寂しそうに、みんな、知っていたんだね、と言ったりする。

人は一人では生きていけないからといって、残虐で無慈悲で破壊的な社会という存在を無条件に受け入れていいのか、ということだな。
最後に、空港にポツンと一人残されたベンジーの虚ろな表情が痛々しい。

デヴィッドとベンジーの関係性は、日本の「男はつらいよ」の寅さんとさくらさんの関係に似ていると思ってしまう。
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