ずどこんちょ

スーパーの女のずどこんちょのレビュー・感想・評価

スーパーの女(1996年製作の映画)
3.7
いやぁ〜物価が安い。卵50円台って、安売りしてると言ってもこんな価格じゃ今は売ってない。時代は変わってしまいました。こういうの見るとつくづく今を生きるのが窮屈になってしまいます。

そんな激安スーパーが近所に開店し、経営の危機に陥った小さなスーパー「正直屋」が舞台の伊丹十三監督作。
正直屋の専務の五郎と、スーパーが大好きな普通の主婦の花子が幼馴染で、良質なスーパーの基準に詳しい花子が正直屋に雇われてからお店の大改革が始まっていくのですが、主婦の花子役は伊丹作品にはお馴染みの宮本信子が痛快爽快に演じています。
どんな強面の職人を相手にしても、客のためのことなら怯みません。勝ち気で勇猛果敢で頼りになる存在なのです。

スーパーの中は毎日毎日トラブル続き。
レジではお客のクレーム対応をし、値札は特売終わっても直されていないまま、カートは駐車場で放置されたまま。
こんなペースで走り回って働いてたら身体がもちません。そもそもこんなにトラブルが続くのは、各部門の連携が取れておらず、販売者として無責任な取組姿勢がこの店全体に根付いているからです。客のために商品を売っているのではなく、職人のために商品を売っているようなもの。
花子は五郎に頼んで、客目線のスーパーに転換するための大改革を起こすべく、副店長という肩書きをもらって奔走していきます。

それまでの正直屋は「正直」屋という名前とは程遠い店でした。
スーパーの中にはゴミが落ちており、鮮度が落ちた魚からは赤い汁が滴っています。
売れ残りのカツも二度揚げしてカツ丼にして再販します。ひき肉も、おにぎりの中のたらこも、混ぜ物をしてカサ増し。
「商人と屏風は曲がらねば立たず」が現店長の方針で、それをモットーにズルいやる方で客を騙しているのですが、そもそも本来の諺の意味は商人は客の意向に沿うようにしないと商売が繁盛しないという意味だそうで、まるで真逆。
要するに、この店長は自分たちの利益を生み出すために都合の良い言葉を並べてスーパーを牛耳っているわけです。
もっとも、この店長が近所にできた安売りインチキスーパーと通じているわけですが。

ましてや鮮度の落ちた売れ残りの魚や肉を、パックしなおして日付を書き換えて再販するとは。
それは商売の工夫とは言わず、いわゆる偽造ではないですか。当時はまだそういう偽造もあちこちで横行していたのでしょう。
作中では客に鮮度の良い商品を売るために改革し、売れ残った魚を泣く泣く廃棄処分しておりましたが、今のご時世的にはフードロスの関係で問題視されますし、今のスーパーの経営はこの頃より一層大変なことなのだろうと感じます。

花子の前に立ち塞がるのは店長だけではありません。
正直屋が古き悪習を根深く残している要因の一つが、精肉と鮮魚のバックヤードを牛耳るそれぞれのチーフです。
職人気質のチーフたちはそれぞれのチームのパートや後輩たちに役割分担をしません。昔ながらの魚屋、肉屋の方法で自分たちのやり方を通しているのです。
スーパーとしては流れ作業にすれば品出しの回転も早くなるのにそうはしない。精肉チーフは高い和牛を意味もなく売り出し、鮮魚チーフは魚捌きを自分一人で担うことに誇りを持っています。
どんなに花子がスーパーの表面に手を尽くして改革しても、裏面にチーフたちがいる限り、良質なスーパーには近付けないわけです。

そんな目の上のたんこぶでも、店の転換方針に不満を溜めるチーフを追い出すというような横暴なやり方ではなく、鮮魚チーフを説得して納得してもらうというやり方を選びます。花子は客と同じぐらい、店員のことも気を遣っているのです。
しかしまさか精肉チーフがどす黒くただの悪人だったとは。職人というプライドで身を固めた阿呆でした。

店の改革は客のためですが、それは結果的に店員の働きがいにもつながります。
正直屋の場合、自分たちで客に売り出している商品が嘘偽りに満ちたものであったから客に対して引け目を感じていました。
パートのおばさんたちは近所の主婦。そのパートの店員が自分の店の商品を買わないのはおかしいというのは、至極道理の通った話だと思います。私も惣菜屋でバイトをしていたことがありますが、やはりあの頃もお店の惣菜をちょくちょく買って家で食べてました。
自分たちの食卓に、自分たちが働く店の商品を並べたくない。家族に食べさせたくない。こんな皮肉な話があるでしょうか。

「働きがい」というものは給料にも優る。
高い給料を得ることが働きがいにもつながるとは思いますが、それだけがやりがいや働きがいなのではないのだと思います。
インチキスーパーから強引な引き抜きの話が現れた時、彼らが正直屋に居座ったのは改革途上の正直屋にはようやく働くことの面白さや喜びが出てきたから。少し前の正直屋であれば、とっくに店員の大半が流されていたことだと思います。
花子は客目線のスーパーを目指しながら、同時に働きがいのある職場作りに貢献していたのでした。

スーパーの裏側や経営改革を描きながら、それと同時にスーパーというものがいかに街の住民の生活に根付いているものなのかを感じさせます。
改めて考えたら、私たちの日常にスーパーは欠かせません。誰もが週に一度や二度はスーパーに通い、食品や日用品を買い込みます。平日も休日もスーパーは私たちの生活の支えとなるために動き続けているのです。
誰もが1円でもお得に商品を買い、少しでも余裕のある豊かな暮らしをしたいと考えている。花子と五郎が街を眺めながらそのように話していたように、スーパーはそんな日常を豊かにするために紛れもなく一役買っているのです。
新しい街に引っ越したら、より良いスーパーを選びたいものです。自分の生活を豊かにするためのパートナーなのだから。
ただ値引きしているから良いというインチキにはもう騙されません。本当に良い物を、客のためを考えて工夫しながら安く提供しているか。店員はどんな顔をして働いているか。
そんなことを考えながら、自分の通うスーパーを探したいと思いました。