垂直落下式サミング

スーパーの女の垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

スーパーの女(1996年製作の映画)
4.5
玄人主婦の宮本信子が景気の悪い食品スーパー「正直屋」を経営する津川雅彦に雇われて、その鋭い観察眼をもって店舗の売り上げを立て直そうと奮闘する経営マネジメントコメディ。
幼馴染のしょぼくれた専務、覇気のない店員、気分良く働けないパートさん、プライドの高い職人たち、いかにも感じの悪いライバル店など、次々とこのスーパーの問題が浮かび上がってきて、それに対して的確な改善策を提案するのだが、閉じた世界にいる人というものは今までのやり方を変えようとしたくないもので、既存の非合理的な慣習に従って働いてきた従業員たちから信頼を得られず、なかなか成果を上げられない。しかし、周囲に揉まれながらも、めげずに提案し続けた抜本的な働きかた改革は、その熱意に動かされた人々の協力を得て、徐々に実を結び始めるのである。
本作は、勢いのある全国チェーンの大店舗に、知恵とガッツを武器にローカル店が立ち向かう!というであり、資本主義にかこつけた搾取構造へのカウンターとなっていて、儲けをフトコロにため込むのではなく、消費者とよりよい関係を築いて社会に還元していれば、長い目で見て生き残れるんだという考え方だ。消費社会における食品店の理想的なあるべき姿だといえる。日本で古くから問題視され、時に美徳とさえされていた「嘘も方便」とする商人根性は邪悪で間違っていると、社会に対する問題提起として十分社会性のあるドラマとなっていた。
劇中、宮本信子の言うことはどれも的を射ている。そこで働いている人間が、その職場で売っているものを買うかどうかという視点は、とても興味深い。
食品の偽装表示や商品のリパックなどは、映画公開後に大手食品メーカーの不正が明るみに出るなど現実として問題になっているが、現在もそのような事件がたまに報道されることは、非常に残念に思う。映画とは逆で、社員教育の行き届いた大手ではそんなことはなく、経営状況の厳しい個人経営の店が密かにやっているというから救えない。
ならば食料を軽々しく捨ててもいいのか?という問題もあるわけで、私は賞味期限気にしすぎる風潮には批判的。日本という国は、食品の大部分を輸入に頼っているくせに、世界一食品を捨てている国だそうですよ。食品廃棄率はアメリカよりも上。「もったいない」発祥の国が聞いてあきれる。
この映画が製作公開された1996年は、まだ食品スーパーは庶民が買い物をする場所として生活の中で存在感を示していたが、同時に映画が競合他社の範疇から除外していたビッグストアやコンビニエンスストアなどの小売業が台頭し始めた時代でもあり、このあたりから徐々にスーパーは食品流通の主役ではなくなっていく。中小の食品スーパーのリアルを徹底的に再現し、その裏の裏側まで見せるこの映画は、我々が映画で昭和の街灯をみる感覚のように、舞台設定そのものが懐かしい映像となってゆくのでしょう。

ところで、私は古書の映画パンフレットを集めるのが趣味でして、特に伊丹映画はパンフの情報密度が高くて好き。中身は宮本信子や津川雅彦ら常連俳優のインタビューが主な内容だ。(『ミンボーの女』のように、警察への取材記録と監督が語る舞台裏、登場人物の関係性の整理と、題材にした社会問題の定義に多くを占められている場合もあるが、『マルタイの女』『大病人』は、ほぼこれと同じ構成。)
読んでみると、「監督の期待にこたえられるように…」とか「監督の映画にとって必要な存在でありたい」とか「今回も難しかったなあで終わった」とか「料理されている牛の気分だった」とか「どう捌かれるのか楽しみだ」などと、監督への畏敬を込めながら撮影時の具体的なエピソードも交えつつ各々が役を演じることへの意気込みを語っている。ところが、そこで出演した百戦錬磨の名優たちの全員が例外なく、長い撮影を終えた達成感や映画の意図をうまく汲めなかった弱音というオブラートに包みながらやんわりと「ジジイ凝りすぎなんだよ!」とサーティーンへの愚痴を漏らしているのが面白い!鮮魚コーナーの見習いを演じた伊集院光は、アウトテイクの数だけ鯖を捌くシーンを演じ、手から生臭いにおいが取れなくなったそうだ。