Lisbeth

π〈パイ〉 デジタルリマスターのLisbethのレビュー・感想・評価

3.8
数字と人間との間の転回論
パンドラの箱
数字主義者と神秘主義者と資本主義者

観てるこっちまで少々酔ってきて頭痛を催しかねない

音楽がくせになるテクノ

画についてはもう一回見ないとわからない



16世紀、また一つ人類に至上の命題を提起したのは、コペルニクスであり、ガリレオだった。ヨーロッパを支配していた教会権威が、開花期を迎え始めた科学の挑戦を受けたのである。地動説を提唱したガリレオは宗教裁判を経て自説を撤回したが、結局のところ、約350年後である20世紀末の名誉回復を俟つまでもなく、天動説に対して地動説の有意が確固たるものとなった。

 果たして現在、コンピューターの誕生から始まるその計算速度の高速化、さらには人工知能の開発が著しいなかで、一事が万事、数字を用いて表現可能であり、そのデータの裏に法則を見出すことができるという向きに注目が集まるのは、畢竟意外なことではない。これは、人類が世界の大分を「偶然」や「ランダム」といった領域に自明のごとく置き残してきたことへの挑戦と言える。この挑戦を見守る審判席には、もはや宗教的権威の影はなく、科学それ自体が鎮座している。傍聴席では数学公理と資本、プラットフォーマーがその座を占め、肯定的な審判を待ち望む熱気を醸し出している。動向を悲観視するものはどこにあるだろうか、と。

 こうした挑戦が今ほどには明確でなかっただろう20世紀末の1997年(これはガリレオの名誉回復の僅か5年後のこと)にダーレン・アロノフスキーの手によって制作されたのが今回の作品「π」である。話の筋を端的に述べるならば、「複次的な転回論のもたらす円環」と「パンドラの箱の回避」である。この流れに、モノクロームの映像とテクノが加わる。

 天才的な数学者の主人公は、数字を用いることで世界を把握することができるという自説の論証の手始めに、株式市場の予測に熱を上げる。しかし、右手の痙攣や激しい頭痛のなすがままで、人間的生活を送っているとは言い難い。むしろ、同じマンションに住むアジア系の少女が彼に暗算をせがむところに明らかなように、自身がコンピューターであるともいえる。

 もちろんその能力は、街角の牧歌的な会話の中で求められるにとどまるわけはない。数字を操る数学者として、216(=6×6×6)桁の暗号の解読を目指すユダヤ神秘主義者や経済的に暴利を貪ろうとする資本主義者に求められていく。興味深いのは以下のような構図である。つまり、手段として数学者を利用していると自認している者も、実際のところは真なる主体ではなく、宗教や資本の自己増殖的機構といった超人間的なものに取り憑かれている。けれども、実際にはそうは捉えず、神へ近づくためのカバラ数秘術のいわば最後のピースとして主人公を追い求め、株式市場での利益やさらなる発展につながるはずの資本獲得を目論見ながら、傍聴席で怒号を飛ばしている。

 ここで、「審判」は誰の主催によるものであるのかと問うことは、一つ補助線をもたらす。当然、興奮の様子を隠すことのない傍聴席の住人たちは、有史以来技術的発展を続けてきた人類種の一端として「我々」を自認し、あたかもリベラルデモクラシーにおける弾劾裁判でそうあるように、審判者もしくは弾劾の告発者が自らを代理するという形で、眼前の審判を主催していると主張するだろう。しかし、法廷にいる数学者の最終的な狙いは数字による世界の記述であり、どうしても傍聴席との間に方向性のズレが出てくる。本作で言えば、主人公が、技術面でサポートしてくれた企業からお前の脳こそが必要なのだと露骨に言われて襲われ、その難から救われたかと思うと、今度はラビに自らの握る秘密を明け渡せと迫られ抵抗する場面である。そこで彼は、自らが秘密を解き明かしたはずであるのに、自分は選ばれたのである、と捉えるようになり、ある種の主体性を失い、不完全な主体性を新たに持つ。その主体性が不完全であるのは、あくまでも一定の枠内における主体性、具体的には「神の統べる地平においての」という条件付きでの主体性だからである。つまり、傍聴席をはじめとする「我々」の代理人であるはずの挑戦者本人が主催者でないことを自ら認めたのである。

 それでは主催者は誰かというと、人々を各々の方向に駆り立てるもの、つまり象徴的な「神」ということになるだろう。本作のミソは、コンピューターが特定の条件においてバグを起こす事件で中盤から暗示されるように、あるところにまで行き着くとコンピューターが意識を持ち、その意識に基づいて(もしくは、解読によって顕となる以前から存在した意識に基づいて)あらゆる事象が決定されていたがゆえに、それらが数学的に表記できるようになったと見えるようになることである。つまり人間が数字を操っていたのではなく、数字が人間を操っていたという転回論である。

 まとめると、数字、数学者、宗教家・企業の関係は、

1 数学者が数字を操る

2 宗教家・企業がその数学者を操る

ではなく、

1「神」(=数字)が数学者を操る

2 数学者は宗教家・企業の手段であることを拒否する

3 「神」(=宗教、資本)がその宗教家・企業を操る

というものである。注意すべきなのは、最終的に数学から離れたように、主人公は自身が数字に操られていたことに気づいて一定の主体性を回復した一方で、宗教家や企業は、あまりに各々の「神」に入れ込むゆえに、みずからが「神」に回帰する存在だとはいまだ認識していない点である。さらに本作は、現実では以上のような複次的な転回論によって、全体として「神」(=数字)から「神」(=宗教的神や資本)に至る円環が形成されていることを示唆していると言える。また、こうした主人公の気付きとその後の行動は、いわば真理という神に近づきたが故に知ってしまった秘密を放棄することでパンドラの箱を開けずにとどめたことを示している。

 現代に話を繋げれば、あらゆることが計算により予測可能となった世界では倫理的なものをはじめ、様々なパンドラの箱が開くおそれがあり、それに対してそのときの我々はどう対処するのかという疑問形を含む示唆を約30年のときを隔てて提示する作品と言える。

*主人公は幼少期に太陽を長く見すぎたことで、心身ともに健康を害する発作的な頭痛に見舞われるようになったという。それは作中で恩師がイカロス(太陽に近づきすぎて墜落死した)になるなと警告を与えたこととつながっているし、本論の骨組みである転回論のもととなった地動説天動説の議論にもリンクしている。

**映像と音響が主人公の頭痛を観客にも体感させるかのようなものである
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