ニューランド

トアのニューランドのレビュー・感想・評価

トア(1949年製作の映画)
3.8
✔️🔸『トア』(3.8) 及び🔸『ある正直者の人生』(3.9)▶️▶️ 

 戦後のスタート期から間もない頃か、『トア』。なんとも映画的なうねり、拡縮・緩急があるわけでもなければ、演劇的な世界の概念の転換が行われる訳でもなく、定速の似たありがち場と、人の掛け合いが続くだけである。これはいくらなんでも誉めるわけにはと観てて、見終わった時にはすっかり感心してた。何だろう。
 左右へ動くのの長めフォロー移動やパン行き来、寄りサイズ他で異物的な人が入り、トゥショット中にはやや角度てサイズ変のに移るも、ベースの切返しも浅めに角度やサイズを詰め狂わす事などなく、半端な似たサイズをテレビスイッチングのように切り替えるだけ。それがステージと客席でも変わらない平板さ。自室と、それに似せた舞台、行って帰るだけで、混乱混同は微小、大元不変。
 なんという、味気ない静かなタッチなんだ。ステージでの光芒カットがあるくらいで、閉口し始めると、僅かな角度変や切返しの詰めてかなり続くドラマ外の地熱や、僅かに顔に寄る移動が塊りの密度をウッスラ品よく示してきて、衝いてくる。そして映画的アップの強調などない、手紙のこっそり覗き多種形・お馴染み寝取られ夫の苛立ちや別のカップルの晴れぬ浮気疑惑・あくまで意識しないのと偶然感じるのもいる舞台への思わぬ立つ機会の本質スリリングらの、さりげない台詞や表情説明でダブってくると、思わぬ掛け合いが中身絡みに生じてきて、本来的カップルに戻りつく手応えが、やんわり軽くも、ズッシリ劇として生じてくる。「二人は関係してるのよ」「アッハッハ」「彼女は僕の妹だ」であっさり型がつくなんて、それはそれまでの細かい状況押さえの賜物。
 性格的に激しすぎて、出ていった若い恋人が、翌日座長の舞台初日に、事前射殺予告の主として、客席から挑発。それを活かした自宅そっくりの舞台は大成功、夜帰ると、共演女優とその夫、またしても若い恋人らが、口減らずの老女中らを通し、出入りし、2組に巣食う浮気や寝取られの疑いが更に舞い上がり、機転や証拠入れ替わり・感情の重なっての方向生まれで、本来の鞘へ。
 画質もかなり劣化してるし、表現や仕掛けが静かで映画の華々しさも欠如で、金返せていうところが、最後には浮わつかず納得してしまうのは、演劇かギトリのベースか根っこのあり方?
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 次いで観た『~正直者~』の後も、ギトリは歴史大作等を撮ってるから(個人的に初めて観たギトリ映画群がその辺だから見誤った)、それは遺作とは言えないが、極めてパーソナルな作品系列としてはラスト作に近い。癖の少ない一般映画としても名手バシュレのカメラを活かし、極めて滑らかで上手い分かりやすい語り口を持ち、惹き付けるポイントや魅惑もスッキリとしてる。力瘤がはいってないのに、諦観や展望が透明感を湛えてて、『家族の肖像』『ジャン・ルノワール小劇場』『ゲアトルード』『荒野の女たたち』『リオ・ロボ』『アイズ・ワイド・シャット』『まあだだよ』といった錚々たる巨匠らの(準)遺作と並ぶ傑作である。
 戦後すぐの作に比べても、独自な形とはいえ映画的に、信じがたく進歩している。『~規則』のカメラマン・バシュレの構図は、余分な物はなく、かつ、気取りなく美術や光線を密度最適に取り込んでいる。素早い行戻りパンも効果伴い、カメラワークも嫌みなく動き役目を高めあっている。カットの繋ぎもやや詰めて独自の速度と惹きこみを成している。癖のある角度取りと繋ぎだが、嘗てのように部分が浮く事はなく一体的だ。
 「自分(と現実世界)に正直に生きて」社会的成功をそれなりに立派に築き・それを自負している男が、絶縁してた弟の訪問をうける。肩の力を抜き、フラフラと興味・土地・女に次々流れ着き、好きに気儘に生きてきた未だ独身の双子の弟。18の時に絶縁して30年、貯えも尽きたと頼ってくる。一見シビアに成功も、妻子や使用人らへの(相互)冷酷を始め、人間関係は冷えきってる兄は、断った後も引っ掛かるものがあり、弟の安ホテルを訪ねる。しかし、弟は持病の脳梗塞か、苦しみだし、医者を手配も絶命する。兄は自分が死んだ事にして、何の気紛れか、弟に成り済ますと、一夜の客だけだったのに慕って訪ねくる娼婦を始め、人間味・人情に溢れ、自由に解放されてた弟の半生と、その安楽・親密を知る。その侭、遺書の書き換え分を書き、自分に宛てられた弟の手紙を見せて、筆跡が違い捏造ではない、と証明し、全財産を相続し、新たな人間味加えた辣腕をふるい出す。すり寄って、より絆強く家族の一員の恩恵を求めんとする妻らも、夫とは違う弟の人間性に純粋に、魅惑を感じる面も。
 が、遺体に有るべき手術跡が無かったと、死の確認に立ち会ったが、言うべき場ではないとズラせた、主治医の連絡が入る。ゾッとする家族、全ては何らかの経緯の演技で計られ見透されてたのか、或いは・・・。本人も夜の外を歩きつつ、「最大の敵は自分かも。それにどの様に対処してくか、きちんと向き合う事を」を事態の進行とは別に実感し始めてる。
 作者本人でなく、名怪優シモンに二役をふった以外は、すっとんきょうトリックも限定し、一般的やり取りや呼吸感のニュアンスと・妙も有りうべき空間空気密度の定着に、描写を極めこんで、ドライヤーの遺作であり最高傑作の老ヒロインに届いてく。
 戦前のギトリは映画として成り立つ限界を無意識にも触れまくり壊しかねない世界を創造していたが、戦後は枠内で細かな加減をするだけで似た手応えを生んでいる。核となる演劇も、妄想的暴力性を、突っ走るモノローグが他の台詞らを引き連れくる形から、高度なダイアローグと仕草の掛け合いから、浮かび上がらせる面が併さってくる。後で気がついたが、この2作はそれ程離れておらず、スタイルの違いはプロダクションのあり方が何か違って、『トア』映画版へのギトリの演出係わりの控えめのせいかもわからない(いい、悪いは別にして)。
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