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カントナックの財宝のニューランドのレビュー・感想・評価

カントナックの財宝(1950年製作の映画)
3.9
 じっくりでもないが、今年はアカデミー賞授賞式録画中継の粗方を観てしまった。授賞結果は明らかに変だが、ノミネート作品群はなかなかのもの。が、作品賞に限らずあらゆる部門で、ノミネート全作品(最低数十本から百数十本か)中おそらく実物は一本しか観てないことにも気づく(既に何本も本邦公開し反応もかましいのに、TVモニターで早回しで観たアニメがもう一本あるか)。それで気楽に言ってしまうが、ギトリの本作は、実際に観たのとの比較は外すと、想像上のどのノミネート他作より優れていて、これが今年のオスカーレースに入ってたら作品賞の栄誉に最も相応しいと、観てる途中から勝手に確信した。それぐらい力みなく、ほんもの然と秀れている。例によって撮影前の妙な楽屋裏的場から入り、本編も作家の語りがとにかく一方的に勝手に大量載っかって主導してく。語る前・中からも、語る主体と演じる側も錯綜してゆく。しかし、それがめちゃめちゃ綿密で素晴らしい内容と流れで引き込まれてしまう。やがてその語りが弱まる頃から、素晴らしい仕掛け・プレゼント・展開が知らず広がってくる。ゲーテの『へルマンとドロテーア』やルノワールの『黄金の馬車』のような崇高さにも達する。そして更に、戦前ハリウッド華麗作のような壮麗で陰りのない無邪気さに届くのだ。これを上回る作等滅多にあるまい。ギトリの作は邪気の固まりか、それを呑み込む無邪気な懐ろか、線が引けないが。
 領主となる男の城造りとその家系の繁栄継続で、生まれ膨れ育った村。フランス革命で、城とその権威が否定されてよりは、村もジリ貧に。今も歪みの歴史は村人から生気を失わせてて、司祭と村長の反目・勢力争いは、じつは兄弟ゆえの齟齬・対抗意識から。巻き込まれたくない村人は二人を避け軽視、村から出入りしない閉鎖性は二人を除き、親戚・同族ばかりに。隠し財宝を持つという長老は、120歳を過ぎても元気で、遺産待ちの家族らがおかしくなってる。美人過ぎて、「怪物」扱いで縁遠い商店の娘。言い出せぬ美男や、奇天烈過ぎて薄弱者扱いの変人らとの、絡みめ。医師も通りすぎるだけだが、瀕死の女を直すとその夫から恨まれる。通りかかりジプシーの舞は人気博すも、料金取り未来あると占うと、現状底と解釈され、激昂される。
 だが、地位や財を失っても、(元)領主は代々崇め望みの存在だったが、その血縁が途絶えた事も、決定的に村人の活力を萎えさせてた。だが、その末裔の名門男爵が少し離れた屋敷に存命していた。が、その屋敷は一度手離したのを、経済的に成功した召し使いらが買い戻し、変わらぬ敬意と善意で住まわせてくれてた物。本人は活力なく、自殺前も、壁のある絵画に惹かれ、その地に足を運ぶ。見かけた村人はその品格にハッと領主と直感し、120代長老は預かってたと、財宝を隠し場に誘う。変人が予感で守ってたこともあり、宝は健在。城を再建、巨大土地も買い、村人に希望に沿う場を与えてく。仕事への欲と向上活力を取り戻してくる村人。美男と美女は、肖像画で祖先の血をひく者と、妃入りの家の子孫と分かり、めあわせ、村人も招いての、皆の祝の場に。顔のハエ取りから顔面叩き合いが始まり、燻り残ってた近い互いへのわだかまりも消えてく。この計画で男女は、財宝の全て使い果たすも、元々のガラス職人に戻り、仕事の成功の道を歩みだし、皆にも仕事へ向かう大切さを改めて伝えてく男爵。
 語り多く、終盤まで視覚的にもありきたり有りがちな平板続きに見えて、この作家のタッチはやはり端倪術からざるもので、WIPEやDISで様々なエピソードと場の切り替わりを滑らかに繋ぎ、細やかにうねらせてゆく中にも、室内の切り返しに窓を挟んでの屋外との切返し、それらの位置配置のうごめきとウェイトずれ、より近接した寄りめ切返しでは90゜変も絡んでの角度のおかしさと強い密度、縦めのフォロー移動やフォローの横パン・中央へ寄ってく移動らの折り込み、映画のセオリーを極めるよりも表現の意味や意義を問うバラけや集中力を映画を越えて持ってる、いつもの楔が確かに打ち込まれてく。終盤は人間関係や共同体の生成とその固有の矜持が、ミステリアスにも突き止められてく、ドラマの厚みと柔軟さがスリリングに浮き上がってくる面白さとなる。20世紀のうちは、ギトリの歴史物や戦後作品は一段落ちると思ってたが、今更ながらそんなことはないと思い返す。真の傑作であり、今回のギトリ特集は目をひく作はないとパスする気でいたが、20年ぶりにテッパンの傑作だけでも、と『私の父~』に足を運び、改めて考えれない感銘を受け、他作へも関心の飛び火が付いた。後、2.3本は観てみたくなった。
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