琥珀

ぼくのお日さまの琥珀のレビュー・感想・評価

ぼくのお日さま(2024年製作の映画)
4.2
吃音の少年が少女に一目惚れし恋心を抱く。
ただ、いきなりフィギュアスケートの真似事をすることの心のあやがうまくイメージできない。ひとりの少女をあんなにも美しく輝かせるフィギュアスケートってなんなのだろう?と感じて思わず動作を真似したということなのだろうか?
常識的で平凡な発想であれば、彼女との距離を縮めるために、ホッケーをやめてフィギュアスケートをしてみたい、と親やコーチ(池松さん)に申し入れるところから始まるはずだが、この映画ではコーチの方からアプローチしてくるし、これがひとつの伏線となっている。
タクヤくんの思いがまっすぐだから、という動機の説明はあるけれども。

少女はコーチへの密かな憧れ(恋と呼ぶにはまだ早い)は窺い知れるものの、その距離感は明確には描かれない。よくあるパターンの脚本であれば、あの教育ママ的な母親とのやり取りを通して、さくらの胸の内がそれなりの具体性をもって呈示される。たとえば、「タクヤくんとペアのアイスダンスなんかで本当にいいの⁈」と母親に責められて、さくらが反発する様子から複雑な心情が描かれたりする。私はコーチの期待に応えたい、とか、タクヤくんの努力に応えたいとかの母親への反発の言葉から、少女は自分の心の複雑な感情を自らに問い始めることになり、次の行動が出てくる。
が、この映画は少女の内面について驚くほど寡黙だし、次の行動も凛としたスケーティングだけだ。

結局、リアルさを伴う心理描写は、池松壮亮さん演じるコーチのものだけなのだ。
少女からタクヤくんへの不純な動機を疑われた時も、UFOや幽霊と同じで、不純さが〝無いことは証明できない〟ために弁解もしなかった。そしてもっと恐ろしいのは、思ってもいなかったはずのことも、言われてみれば、そういう思いがなかったとは言い切れない、という気持ちになることさえあることだ。コーチの方からタクヤをフィギュアに誘ったことが、少女のコーチに対する疑念を証拠不十分のまま、印象づけることになってしまうのだ。

少年の淡い恋心を叶えてあげたい。
キッカケはそんな素朴な思いでしかなかったのに、タクヤくんへの個別指導は、少女からは汚らわしい行為として断罪される。
もし、少女が目撃したのが女性の恋人とのイチャツキだったら、少女は自分に対するコーチの指導を汚らわしいと思っただろうか。嫉妬することはあっても汚らわしいとまでは思わないはずだ。
少女の本当の胸の内は最後まで明確には描かれない。コーチへの生理的な嫌悪感と投げ付けた「気持ち悪い」という罵倒への後悔も描かれないままだ。
さくらはあるひとりの少女の個性ではなく、荒川(池松壮亮さん)のようなマイノリティが感じる息苦しさの象徴なのかもしれない。表立った差別意識など無いし、悪気もなく素直で無邪気だけれども、ふとした時に漏れ出る生理的な反応は、正しくないとか良し悪しとかの理性的な判断とは別に存在する。

雪に閉ざされたファンタジーのような世界での荒川の夢は春の訪れとともに終わりを迎えたけれど、タクヤの夢はこれから始まる。
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