東京国際、読売ホール。24-167。想像できそうで、できなかったのだけど、見てよかった。思いのほか感動してしまった。
僕らは誰だって先人からの贈り物なのだけど、時にそれが耐えられなくなることがある。だとしても、受け取ったもので生きてゆくしかない。裸になって海に飛び込むみたいに。
人は人。ただ顔が似ているだけだとしても、フランス語訛りのイタリア語のなかにマストロヤンニらしいローマアクセントが感じられるとしても、ときに VAFFAN... という言葉がドンピシャのタイミングであろうとも、その人の外見だけで人はわからない。
そうはいっても、似ているということはときに残酷だ。ドッペルゲンガーではなく、鏡の中の自分の姿に自分ならぬ誰かの姿を見る時、そしてその鏡の部屋は『8½』のホテルの部屋そのままなのだとすれば、ドヌーヴではなくマストロヤンニを名乗ることにしたキアラの決意のなかに、亡霊が帰ってくる。
そしてぼくらもまた、その亡霊を見てしまうのだから、なんという映画なのか。ドキュメンタリーではないのにドキュメンタリーでもあり、フィクションではないようできっちりフィクションでもあるような、ああ、こういう映画もあるのだなというような映画なのだ。
それにしても、あの海にいたのはサンドラ(ミーロ)じゃあるまいか。クレジットにはないのだけど、無くなる直前ならあり得ると思うのだけど…
それにしてもイタリアのテレビ局の無神経さは『ジンジャーとフレッド』だし、フェリーニを思わせるトレヴィの泉でヴィスコンティの『白夜』なテーマを流すのは意味深で良い。どちらもニーノ・ロータの曲なんだけど、確かにこちらの方があのシーンにはピッタリなのかもしれない。
パリからローマのテレビ局に向かうとき、男装で国境を越えることを心配するキアラに友人が言う。シェンゲン協定があるのだから、いちいちチェックしやしないよ。キアラの答えは、でもイタリアの首相はあのメローニよ。思わず大笑い。
けれど、大笑いしてもいられないご時世。なにしろジョルジャ・メローニは、イタリアの伝統的価値を称揚し「神と祖国と家族」と訴えるわけだけど、外国からの移民は排除し、イタリア第一主義をとり、くわえて、今日はアメリカでトランプ大統領が再び誕生しそうになると、「イタリアとUSA(ウーサ)は姉妹なのよ」などと発言したというのだ。いやはや、笑ってはいられない。
名優マルチェッロ・マストロヤンニの生誕100年の年に公開された、娘キアラによる『わたしのマルチェッロ』。これは思わぬ贈り物。調べてみると、ibs.it にイタリア版があるではないか。すでにクリック。来年1月のアストロヤンニのセミナー(その3)では、少しこの映画にも触れることができそうだ。