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シン・ゴジラ:オルソのdm10foreverのレビュー・感想・評価

シン・ゴジラ:オルソ(2023年製作の映画)
4.1
【絶望】

し、しくじったぁ・・・・
先日、エミール・クストリッツァの「オン・ザ・ミルキー・ロード」を味見がてらに観始めたところで「さて今週末にでも一気に観ましょうか」なんて悠長なことを言っていたら・・・

≪≪≪配信終了≫≫≫

ノォォォォ~~~!!(「マカロニほうれん荘」のクマ先生のテンションでシャウト)。
モニカ・ベルッチ様、ごめんなさい・・・。
そして、そんな絶望のズンドコにあったdmの目に飛び込んできたのは、このモノクロのゴジラの恐ろしいシルエットでした・・・。

これは今回の「ゴジラ-1.0」のAmazonPrime配信開始に乗っかって一緒に配信が開始された作品。
これって劇場公開してたっけか・・・?はて?
なんか、あったような・・・なかったような・・・って感じ。

恐らくね、暫くの間は「ゴジラ-1.0のほうが!」「いやいや、シン・ゴジラでしょ」っていうやりとりは今後もあちこちで続くのかもしれないんだけど、まぁぶっちゃけそれはそれで別にいいと思うんですね。

僕個人の中にですら、それぞれのゴジラに「好きな点」や「ちょっと・・・な点」はあるし、観るタイミングによってもそれが変化もするだろうし。
今は「シンゴジ」の方が自分的には刺さってるけど、ちょっと経ってから改めてみると「やっぱマイゴジも面白いかも・・」ってなるかもしれないしね。
こればっかりはわからんし、今後も別に優劣を決めるつもりもない。

って言うところで今作

≪この作品に「オルソ」というタイトルを付けた訳≫

「オルソ」とはギリシャ語で「正しい、歪(ゆがみ)のない」という意味だそうです。
つまり、オリジナルとは別にこの作品に込められた真意というものがキチンと明確にあって、それを表現する方法として「モノクロ」を選んだという事だと解釈しました。
そこを踏まえた上でこの作品を観てみると・・・・中々面白いんですね。

この作品が「オルソ」だからと言って、それ即ち「オリジナルは正しくない、歪だ」という安直な意味ではないと思いますし、むしろあの「オリジナル」があったからこそ、その中にある「この作品自体の意味」をダイレクトに伝えるためにはどうすべきかという観点で作られたのがこの「オルソ」だったんだと思います。

一般的に「あえて」モノクロで表現する場合にはいくつかの意図やメタファーが隠されていることがあります。
例えば「人種間対立」がテーマの作品をモノクロで描くことで「人間を色で分けるようなことは意味がない」っていうメタファーともなるし、ネオン街などの煌びやかなシーンから色を奪う事で、より「孤独」や「無感情」「無感動」のような状態を表わすこともある。
そして「色」という端的な視覚情報を排除することで、物語そのものの中にある「真意」を浮き彫りにする手法でもある。
これはアスペクト比を意図的に「4:3」や「1:1」に変えて表現するのとも似ていると思いますが、今回で言えばまさに「真意」を表現するための「制限」「排除」ですよね。

「ゴジラ-1.0」ではゴジラは敵そのものであり、それと戦い倒すことが目的のお話になっていましたが、「シン・ゴジラ」におけるゴジラは「日本という国家では太刀打ちできない災害(厄災)」の象徴として使われており、どちらかと言えば「ゴジラを倒す」以前に「機能不全に陥った日本に何が出来るのか?」が試されるというポリティカルサスペンスとしての要素が強い作品だったんですね。

そこに「ゴジラ」というメガトン級の存在を、日本にとっての喫緊の課題でもある「巨大災害の対応、対策」や「有事のマネジメント(渉外事案も含む)」のメタファーとして使ったことで、日本人の中にある「目に見えない不安、恐怖」にドストライクでハマったことが「空前のシンゴジブーム」にも繋がりました。
これが公開された2016年って、今になって思えば「あの震災を『過去』と言い切ることはまだ出来ない」そんな時期だった気がします。

そして、その時の混乱や先行きの見えない不安、不透明さをいうものが、この「オルソ」の中で際立っていたような気がします。
ただ単に「モノクロが流行っているから」という流れで作ったのとはちょっと意味合いが違うというか、この作品に関しては「オリジナル(カラー版)」と「オルソ(モノクロ版)」がそれぞれに意味を持った作品として両立しているような感じを受けました。

夜の東京を一瞬で破壊してしまうシーンは、モノクロになったっ事でより不気味さが増強されて、以前観た時よりも怖く感じましたね。

やっぱり「シンゴジ」もいいぞ。
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