クビになった絵描きが、右手が効かないので、左手で紙に○を書いて何でも屋に売り込んだところ、それがバズって、○が芸術として大騒ぎになる、という設定自体はすごく興味深い。
懐かしい筒井康隆の「疑似イベント」てきな「エスカレーション」の物語としてワクワクしながら観始めた。
が、結果的にその期待には応えてもらえなかったと思う。
いや、勝手に期待する方が悪いのだが、この作りなら当然、エスカレーションの物語になるはずだし、事実、「高値で取引」「芸術として評価」「ノーベル平和賞」「SNSで拡散」などとなると、あきらかに「エスカレーションする面白みと狂気と恐怖」が話の軸になってはいる。
そして、それが何かを象徴するという立て付けなのは間違いない。(現代の、たとえば「意味を過剰に解釈するありかた」「平和を希求する人がもっとも価値が高いという決めつけ」「権威にたやすく賛同する逆の意味でのポピュリズム」など・・)
しかし、そういう持って行き方をしながら、途中で何度も作り手は「いや、そういう話じゃないんです」と、自ら腰を折ってみせる。(まさに本作の主人公的だ)
主人公は大金を手にして浮かれたりしないし、かといってさらなる高みを目指したりもしない、じゃあ何を目指すのかというと、さして何も目指していない。
(こういう脱力することへの価値感は従来の荻上直子作品の特徴の一つでもあろうからそれ自体は納得できるのだが)
エスカレーション自体も「高価な美術品」としてエスカレートしているのか、「みんながマネしてめちゃくちゃになっている」のか、「マネした作品はやはり評価されず、主人公=さわだの○だけがやはり何か違うということになる」のか、そのへんロジックが発揮されず、騒ぎが続いているのか収束したのかすら明らかではない。
資質と違う話を作ってしまって、落とし所が見つからなかったように感じるのだが・・