この人のことミリしらだけど何となく観に行くか~と思い立って観てるうちに「あ、楽曲は知ってるわ」と途中で気づく。観ている前から名前はどこかで聞いたことあるなぁとは思っていたのですが、しかし世間的にみればむしろその程度の認識でしかない自分が異常なのだろう。
で、名前を知っていた理由は映画のベストヒット楽曲を集めたサントラに「Happy」が収録されていたからで、その曲はこの映画の中でも使われていた。ていうか「ミニオンズ」の曲だったんですね。それすら知らなかった。
とまあ、それくらいファレル・ウィリアムスについては全く知らない人間だったわけです。客層がちょっと面白かったのが、ほとんどが子連れの親子だったこと。
とはいえ客入り自体は休日なのに少なかったし、そもそも箱自体が小さいので集客はそこまで見込まれていないのだろうけれど、そうなるとなぜ親御さんは子どもを連れて来たのかが割と謎。
と、考えた時になぜ自伝映画がLEGOなのかという理由が見えてくる。要するにそういうライトな層を「LEGOだから」「LEGOなら」という塩梅で呼び込めると思ったからだろう。実際、ファレル本人も自分の子どもにも理解できるようにLEGOという表現を使いたかったみたいな発言をしているそうなので。
はたしてその選択はある程度は功を奏したと言えるだろう。とはいえ、それは決してこの映画が傑作となったとかそういうことではなく「致命傷にはならなかった」という話でしかない。
物語のレベルでいえば、この映画はハッキリ言って退屈極まる。ほとんと無理やりと言っていいほど無理筋な挫折(「”べき”ネスマン」という字幕に翻訳者の苦心が見える)を盛り込まないと起伏が作れないからだ。
そして監督がドキュメンタリーをメインとしているというところも、その平板さに拍車をかけているだろう。
ときおりドキュメンタリーっぽいカメラワークこそあれ、アニメーションという完全に統御された表現技法においてドキュメンタリックなカオスを呼び込む余地はなかったのである。
だからこそ、アニメーションとしてのLEGOを採用したことによる、ある程度のヴィジュアルの楽しさを観るしかないのだ。
共感覚の表現は面白いし、LEGOのパーツで表現される一つ一つのマテリアルや波の表現はそれ自体に今更目新しさがあるわけではないが、観ていて面白くはある。
ファレル本人の音楽的才覚は確かなので、劇中でかかる音楽は良くて音楽がかかれば乗れるわけだが、それ以外はぶっちゃけ微睡んでましたね。
映画館に来てた子どもも割と頻繁に劇場を出入りしていましたので、LEGOという表現を使っても2時間の興味の誘導は無理だったのだろう。あとは字幕だったので、これが吹き替えだったらもっと子どもも飽きずに観れたのではないかとは思うが、まあ焼け石に水だろうか。