一度見てよくわからなく、つまらない映画のように感じたのだが、もしかしたら見方を間違えたのではないかと思う様になった。長い映画だが、どうしても気になったので早速もう一度見た。見方を間違っていたのに気づいた。奥の深い映画だったのだ。
(以下ネタバレがあります。)
一番気になっていたのは、ラスト近くに主人公の妻エリジェーベトが、資産家のハリソンの家に行き、ハリソンを夫の強姦魔だと非難した場面であった。一度目の鑑賞では、いつ強姦したのかが、明確にとらえられなかったのである。再見してその事情がわかってきた。
主人公のラースロートはハンガリーでのユダヤ人への迫害からの逃走中、列車から飛び降り鼻を折った。その痛みから逃れるために薬物を使用した。その薬物に時々世話になるようになった。ところが、この薬物を使ったセックスにおぼれるようになった。そのことは、映画のラスト近く、骨粗しょう症の痛みで苦しんでいるエリジェーベトに、窮余の策として薬物を注射したときに明らかになる。ラースロートは自分も薬物を注射しエリザベートとセックスするのである。
映画を最初から振り返ってみると、ラースロートが薬物を摂取した症状を明確に見せている場面が何度か出て来る。
最初は友人アティラ夫婦に食事に呼ばれた場面、夜中にアティラの妻と語っている場面、明らかにラースロートは薬物を摂取した状態である。この時、アティラの妻とセックスをしたのではないかいうことが匂わされている。
次にハリソンの家に招待された時、ラースロートはハリソンに自分の芸術観を語り、ハリソンはそれに感動し、ラースロートを真に認める。その夜ラースロートは明らかにおかしくなり、ゲストハウスに泊まらせられる。そして次の日ハリソンもかなりおかしい。ふたりとも薬物を摂取したことが匂わされている。すでにふたりは肉体関係を持ったのだ。
アメリカに来て友人になったアフリカ系のゴードンとも関係を持ったようである。
最初の方に売春宿での行為ももしかしたらそうかもしれない。
このようにラースロートは薬物によるセックスにおぼれていく。アメリカで再開したエリジェーベトを抱けなかったのもそこに起因しているのだと考えられる。薬物のないセックスでは興奮しなくなってしまっていたのである。
ラースロートはエリジェーベトとのセックスの最中に、ハリソンとの性の関係を告白しし、ハリソンに犯されたと言ったのだと考えられる。だからエリジェーベトはハリソンの家に怒鳴り込む。
しかし、それはラースロートの嘘である。ハリソンはラースロートを強姦したわけではない。ハリソンはラースロートを真に尊敬していた。ラースロートはハリソンを理解者として認めた。ふたりは、実は愛し合っていたのである。
ラースロートとハリソンが愛し合っていなかったら、ハリソンはシラをきりとおせばよかった。しかしそうしなかったのは、ラースロートとの愛の終焉に自分の人生の終焉を確信じてしまったからに違いない。
こう考えれば、ラースロートは妻を裏切ったひどい男であるのは明らかだ。ではハリソンはどうなのか。ハリソンもラースロートの夜の生活を維持するために、エリジュベートをニューヨークに住まわせることをしている。明らかにエリジュベートを騙している。アメリカの資産家の胡散臭さを体現している人物である。
ランスロットもハリソンもブルータリストであったのである。
もちろん彼らの人間性だけの問題ではない。それは時代が作り出したものである。だからこそ時代を超える芸術に救いを求めるというのが、この映画のひとつのテーマではなかったのだろうか。
この映画を見て、前半はよかったが、後半になってついていけなくなったという意見を多く見た。私も最初に見た時そうだった。前半はアメリカンドリームの物語であり、それに胸を躍らせながら見ていた。しかし後半はひどい話になっていく。これはアメリカンドリームが虚像であるであるということを示している。あきらかにアメリカ批判の映画である。さらにアメリカ批判だけでない。ユダヤ人も批判するセリフもある。世界は虚像でしかない。その虚像の中でわれわれは生きている。おろかな人間の姿がそこにはある。しかし愚かな人間が必死に未来に残るものを作り上げて行こうとする。その営みを描くことがこの映画の目的だったのではなかろうか。
残された謎もまだまだ多い。その中でも一番引っかかっているのはジョーフィアの存在である。この映画ジョーフィアから始まり、ジョーフィアで終わっているのだ。彼女の役割がまだよくわかっていない。また、エリジュベートにも謎が残っているように感じている。まだ何か見逃していることがありそうである。
さて、この映画、謎解きをしていくことによって面白味が増すのは確かであり、優れた映画であるのは明らかだ。しかしこれが、評価すべき映画であるのかは、もう少し映画と語り合う必要があろう。またしばらく考えてみたいと考えている。そして動画配信がはじまったら、ノートにとりながら考えてみたい。そうしてみたくなる映画なのだ。