耶馬英彦

山里は持続可能な世界だったの耶馬英彦のレビュー・感想・評価

4.0
 埼玉県の秩父市や飯能市の農村を中心に、高度成長期の前までの生活の様子を描く。薪で暖を取り、生活用品は竹や樹皮や藁で自作する。蚕を飼う農家は絹糸を作り、鍛冶屋は農業や生活に必要なありとあらゆる金物を製作する。
 山そのものも新陳代謝をする。歳を取った樹木は伐採し、新たな樹木を植える。面倒を見るというやつだ。それで山はいい状態を維持し、動植物と人間が共生できていた。広葉樹の森は果実やどんぐりなど、動物に餌を供給し、人間はそのおこぼれに預かる。ときには動物を殺して食べもするが、自分たちが生きていける範囲内である。決して濫獲はしない。
 ところが行政は、林業に口を出し、広葉樹の森を伐採して、針葉樹を植えさせる。農家には金を出して言うことをきかせる。杉や檜の木材で儲けようという魂胆だった。しかし一方で、安い外国の木材の輸入を許可する。支離滅裂な政策だ。お陰で広葉樹の森を追い出されてしまった動物たちは、人里に降りてきて、作物を荒らすようになる。熊や猪や猿の被害は、そもそも自民党政権の失政が原因なのだ。

 本作品のタイトルの通り、かつて人間は環境に負荷をかけないで自然と共生していたのに、もはや環境を破壊する存在になってしまった。それが本作品のテーマである。とは言っても、いまさら電力を使わない生活をするのは無理がある。
 ただ本作品は、かつての生活と同じようなことを現在もしている人たちを紹介している。そういう人たちの生き方を参考にすれば、自然の面倒を見ながら、ある程度の努力と忍耐をすることで、環境をあまり破壊しない生活ができるようになるという展望が見えてくる。
 昔の農村の生活は、拝金主義とは縁のない生活であり、自慢や羨望、嫉妬や侮蔑のない、助け合いの社会だった。人々はとてつもなく我慢強く、賢かったのだ。そんなふうに思えてくる作品である。
耶馬英彦

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