ポスター・ビジュアルの「恐ろしいことはごく自然に起こる」のワードに、あたかも黒沢清が今作を観た後に言い放ちそうな言葉だと思い、配給側の人はめちゃくちゃセンスが良いなと思った。兎にも角にも観終わった後の余韻が凄まじい。1950年代のアメリカ、アイダホ州。一面、小麦畑の拡がる田舎町で気弱な父と躾の厳しい母と3人で暮らすセス(ジェレミー・クーパー)はやんちゃな男の子だった。生意気盛りのセスは友人のイーブンとキムと連れ立って、悪戯を仕掛けるのだ。超巨大なカエルの腹から血が吹き上げる描写は、当時からかなり露悪的な描写に見えたが今観てもやはり露悪的だなという気がした。町はずれの邸宅にひとりで住む未亡人ドルフィン(リンジー・ダンカン)の顔面がスロー・モーションになる描写を含めて、フィリップ・リドリーの意図には首を傾げざるを得ない。だが悪戯がバレ、彼女の家に直接謝罪に行くセスの描写にその後の作品のエッセンスの全ては含まれていると言っていい。幼い頃に年長者を見た時、果たしてその人が何歳かさっぱりわからない事態に遭遇した人は決して少なくないはずだ。
映画の雰囲気はスティーブン・キングへの英国流の新解釈にも見えるし、保安官のアイパッチの描写にデヴィッド・リンチの『ツインピークス』の描写を想起せぬ者はいないだろう。極めてB級感の強い映画は然しながら、その後の唖然とするような描写の連続で息を吹き返す。既にこの時代からあったと思わされる父親の秘密は歪な家父長制を歪なままで体現する。妻の批判を怖がり、軒先でホラー小説を読む父親の病巣はこの時点で深刻な段階に差し掛かっており、それ故の偶発的な発火(イーブンの死)が巻き起こした閉鎖性をむしろ現わすかのように、非業の死を遂げる。その瞬間のセスの視線は悲劇を悲しんでいるように見えて、自分自身に起きた悲劇として捉えていないのは明らかなように、セス少年の中にはもともとサイコパスとしての適性があった。然しながら小説(物語)の中の世界を信じ、空想と現実とをあえて分けることのない少年時代の判断が何とも悩ましい。中盤、父ルーク(ダンカン・フレイザー)と入れ子構造のように立ち現れたの兄キャメロン(ヴィーゴ・モーテンセン)はセスの恐れを半歩先回りするように、眼前に悪夢を抱かせてしまう。カエルの腹を爆発させた露悪的なカメラの動きは、あのキャデラックの心底気持ち悪い悪夢的な動きに呼応する。クライマックスの余韻を含め、心底気持ち悪い厭なミステリーだが、嫌いにはなれないカルト的名作である。