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『ルート181』に投稿された感想・評価

3.7
【イスラエル・パレスチナ問題を巡る旅】
動画レビュー▽
https://www.youtube.com/watch?v=5O6cTw8nyoc

アテネ・フランセで行われた「ドキュメンタリードリームショー -山形in東京2024」にてミシェル・クレイフィ&エイアル・シヴァンによる4時間半の超大作『ルート181』が上映された。本作は蓮實重彥「ショットとは何か 歴史編」巻末の年間ベストまとめにも掲載されている一本である。ミシェル・クレイフィといえば『ガリレアの婚礼』のイメージが強く、ドキュメンタリーを撮っていたことに驚かされ観てみた。

静止しているふたりをデジタルな動きでクローズアップする。周囲は動的であるのに、中心にいるふたりは静的である奇妙さについて考えさせる間もなく、『ルート181』のテーマを表現する特殊な画を構成していく。上下に分割した画を用意し、上には本作の背景がテロップで説明される。下には旅のルートが表示され両画面とも動く。テロップの終わりに、紙を破るようなアクションが入り、上下の境界が融和していく。

イスラエル/パレスチナの分断を巡る4時間半の旅において、明確な境界と曖昧な側面を意識させられる場面が反復される。車が走る際、フロントガラスに地図が映り込む。監督が引いた1947年にパレスティナを二分するために採択された国連決議181条で描かれた境界線《ルート181》と実際の境界、壁、自由に境界を越えていく戦闘機、アラブ人とユダヤ人の中にある複雑な心理、これらを意識させるための演出が最初のアレなのである。

映画は南部、中部、北部の3部構成となっており、それぞれで山場がある。

第1部では、ユダヤ人博物館員との論戦の緊迫感が印象的だ。「人の話を聞け!」と、反論させる暇も与えずにユダヤ人によるパレスチナへの扱いの正しさを豪語する。論の脆弱性を突こうものなら逆キレをする。彼ほどの温度感ではないものの、映画に出てくるユダヤ人の多くが監督からの質問に苛立ち、キレる、冷笑、開き直りをかますのだ。彼らの振る舞いのケースが集まってくると、「人を殺すのはダメだ」と分かってはいるがアラブ人が増えることによって自分たちの生活が脅かされるのではといった不安によるものが分かってくる。

第2部では『SHOAH』に対する批判が行われる。『SHOAH』ではホロコースト経験者による凄惨さが語られ、ユダヤ人に同情が集まる内容となっているが、その裏返しになっている。ホロコーストを知りながらもアラブ人に対する行為に対しては「何も感じない」と語る場面や散髪屋の場面にそれは現れている。そして何よりも、ユダヤ人兵士との対話が重要である。自分たちの状況をカフカの「審判」や「掟の門」にたとえ、デカルトをはじめとする哲学に興味があると語っているが、「イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」については知らないと語っている。

ここで監督は、ハンナ・アーレント《悪の陳腐さ》の俗説である「悪を犯す人は普通の人(哲学書を読んでいるような普通の人が戦争犯罪に手を染めてしまう)」理論でユダヤ人兵士に語り掛ける。今となっては、この説は批判の対象であるのだが、この場面においては極めて重要な役割を果たす。

1.自分たちの話にもかかわらずハンナ・アーレントを知らない
2.なんとなく自分の状況を理解しておきながら加害に手を染めてしまう様

後者は「悪の陳腐さ」が使いやすいバズワードかつ、それに該当する別の表現がないという問題から誤用されているのだが、『ルート181』全編通してユダヤ人が「じゃあ、どうしろと?社会がそうなのだがらそうならざる得ない」と開き直ってしまう様と当事者であり知識欲がありながら重要なことに目を背けてしまう様を同時に捉えるために必要なアクションだったといえる。

第3部では、それまで人と人とを結ぶ点の旅であったものがデモについていく線の旅へと変わっていく。不気味に聳え立つ壁、有刺鉄線から漂う暴力が表面化するように、抑圧する者とされる者の軋轢が捉えられ、そして悟ったかのように開き直るユダヤ人の姿が収められるのだ。

本作を観て、いくつか思ったことがある。まず、ひとつ目はパレスチナが「オリーヴとワインの土地ーバティールの丘:南エルサレムの文化的景観」を緊急的登録推薦で世界遺産へ登録させたことである。世界遺産は通常、数年~10年のプロジェクトで登録されるのだが、戦争や自然災害などで悠長に登録作業ができない場合に、緊急登録する仕組みがある。イスラエルが分離壁を敷こうとするのに対しバティールの丘を世界遺産登録することで、阻止しようとしたわけだが、世界遺産の原則として政治的な登録は忌避されるべきとしている。パレスチナは、正規の手順を踏まず緊急的登録推薦でゴリ押し登録するケースが多く、それを見たイスラエルとアメリカが怒りでユネスコを脱退した。『ルート181』を観ると、壁や有刺鉄線によってアラブ人を徐々に追い込んでいることが良く分かる。《線》による分割に対して《場》による防衛をしようとしていた。2014年の「バティールの丘」世界遺産登録の温度感がよくわかった。

また、本作を観ると前年に公開されたシャンタル・アケルマン『向こう側から』を連想する。こちらは9.11アメリカ同時多発テロ後のメキシコ移民の越境を中心に、家族と離れ離れになったメキシコ人や国境警備にあたるアメリカ人をインタビューしていく作品だ。こちらも境界線を辿りながらメキシコ人とアメリカ人の複雑な心理を紐解く作品となっており、境界、それを越えていく音が特徴的であった。
5.0
「 物たちが所有するのは名前だけ 」                   
  「 砂漠を想像してごらん 」(ゴダール/ソシアリスム)

                                     
  地獄を目まで浸して歩いた
  老人たちの嘘を信じ
  やがて不信のうちに
  故郷に帰ってきた 偽りの国に
  虚偽に満ちた故国に  
                エズラ・パウンド詩集(「わが墓を選ぶためのE・Pの頌歌」)


デュラス:…それに、『ショアー』は見せたわ、ルートを、深い穴を、生き残った人たちを…
ゴダール:あの映画はなにも見せなかった。いや、ドイツ人を見せた。(略)
デュラス:でも『ショアー』は観客の意識を目覚めさせたわ。私たちは映像に侵略されたのよ。
ゴダール:いくらかはそうだ。でもあれは毎週月曜にテレビで流されているわけじゃないんだ、マルグリット…
デュラス:それはまた別の問題よ。見られなかったからといって、その映画はつくられなかったってことにはならな
     いわよ。
           「ゴダール全評論・全発言」

モダニティが人々の生活に与えるショックと傷について反省することができる
資本主義的な美学および文化 ― モダニズム的であると同時に民衆的 (ポピュラー) であるような ― を、
一般人にもアクセス可能で公共的な地平において…
                       「シンドラーのリストはショアーではない」(ミリアム・ハンセン)







 曇天の空と、遥かなる何やら民族的な男性の歌声から遥かなる 木々を超えたパンで 始まる『ショアー』と
抜けるような青空と絵に描いたような雲の群れ、その間をヘリコプターが騒音を立てながら飛んで行き、カメラは2機のヘリコプターをゆるやかなパンで捉えつつ、(遠景に都市が見える)美しい浜辺へと降りて行く『ルート181』の最初のシーンのカットを比べると、ふたつの作品の違いが際立つと言えるのだろうか。

  
 

20世紀の人間の歴史の中で、最大の災厄である「ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策」をテーマにした『ショアー』は
三年半、十四カ国に渡った予備調査と、1976年〜1981年にかけて10回における撮影により作られた。綿密な調査と時間を掛け、収容所の生存者、元SS、あるいは収容所のある土地で暮らしていたポーランド人などの特別な証人による証言を記録する。一方、「パレスチナ/イスラエル問題」を題材にするミシェル・クレイフィ、エイアル・シヴァン共同監督の『ルート181』は1947年の国連分割案181号のルートを、旅し、事前の打ち合わせはなく、偶然出会った人々の話を聞き、撮影し、編集もなるべくそのままに作られている。『ショアー』は、その記憶の基盤や構造そのものをナチスが破壊したこと、そして絶対的な証言者の人数の少なさを考えると、証言者たちは、こう言ってよければ、選ばれた人々であると言える。インタビューの他に、かつての収容所後に生存者を連れて行き、当時と同じ身振りを再現させたり、元SSの隠し撮りの撮影もある。『ルート181』は直接的な証言者だけでなく、ランダムに選ばれた普通の人々、そこにはパレスチナ人、イスラエル人の区別はなく、無名の人々の肉声が、日常のなかで語られる。

『シモン・スレブニクは「途方もなく混乱した話」をするので、「何も理解できなかった」とランズマンは伝えている。話すことを拒否する以前に、出来事のショックで精神的に抜け殻となり「何も伝える能力がない」』
                            (高橋哲哉「記憶されえぬもの 語りえぬもの」)
ランズマンは、長い時間を掛けて、ようやくシモン・スレブニクをヘウムノまで連れて来て、語らせたのだろう。


授業では、そのことを精神分析に例えていたが、ランズマンの役割は、精神分析医か、あるいは、語の本当の意味で(導き手としての)演出家の位置にいると思う。

『ルート181』のミシェル・クレフィ監督は自作について、印象的な言葉を語っている。
「この映画は、いわば長い精神分析のプロセスの第一歩です。抑圧された人々の声を解き放ち、その言葉に誠実に耳を傾けることができるような作品を撮りたい、私たちはそう考えてきました。人間性にたちかえり、より人間を尊重できる枠組みを作ろうとすること、これが私たち一人ひとりを、そして社会を解放するために必要な姿勢ではないかと思うのです。」(ミシェル・クレフィ「他者の声に耳を傾ける」)

私は前回のコメントペーパーで『ショアー』における、通訳を介した証言者の応答の遅延。あるいは、シモン・スレブニクがかつての収容所の跡地と思われる空き地を目の前にし、淀むような時間を、「証言」を含め、あるいは、「証言」を超えて見る者に、証言者の思いが迫ってくるような瞬間を「待機の時間」と書いた。そして、授業の後に、有名なアブラハム・ボンバが証言をする「床屋」のシーンを見て、そこにも確かに「待機の時間」を発見したのだが、シモン・スレブニクの場合とは違い、「床屋」の再現=上演が、必要以上なランズマンの演出がここにはあるように感じた。そして『ルート181』の床屋のシーンが、『ショアー』との対比により、フランスでの上映中止騒動があったとされるが、個人的には、『ショアー』と『ルート181』の床屋のシーンは、まったく別な物であると思えた。
















                               『ショアー』
a
音のフェードインから始まる。(写真 a)街の中の床屋なのだろうか、車の音が聞こえる、電気は付いてない昼間だが、薄暗く、色温度の高い青い印象の室内。そして髪を切るハサミの音。証言者であるアブラハム・ボンバが、白髪の男性の髪を切っている。しかし、その映像は、合わせ鏡による映り込みの連鎖のアブラハム・ボンバの像である。実際には、3人以上の床屋、従業員。その3人に髪を切られている3人の客。そしてアブラハム・ボンバの後ろの椅子で、順番を待っている3人の客。途中から新たにやってきて入り口で待つ2人の客がいる。普通に数えただけでも、この床屋の空間には相当な人数がいるが、合わせ鏡による映り込みの連鎖により、アブラハム・ボンバとその客を中心とした狭いフレームでも、人や物が増幅され、異様な雰囲気を形作っている。
b
カメラは鏡からズームアウトし、現実の彼を捉えるギリギリの瞬間に、「なぜあなたが選ばれたのですか?」とランズマンは質問を始める。(写真b)しかしカメラはまた、鏡へとパンを始め、ズームし、鏡の中の彼を捉える。カメラはこの後も、ほぼ鏡像の彼の姿を撮影している。明らかに意図的に、鏡像を選んでいるのだ。合わせ鏡による複雑な空間と、後ろに位置する椅子に座る客や、他の床屋の身振り、視線が映り込み、観客の注意を散漫にさせる。そしてアブラハム・ボンバの動作も多いために、一度見ただけでは、証言それ自体に集中することができない。そして徐々に、髪を切る動作と彼の発言の乖離が始まる。彼自身も明らかに身振りが邪魔そうなのだ。声の質や大きさが、演説的な何かへと変貌を始める。髪を切る床屋という仕事の日常と 台詞?彼のしゃべる言葉の多さが、釣り合っていないのだ。
髪を切られている客も、待つ客も、他の床屋も、押し黙るしかない。鏡に映り込むこのような複数の視線は 時にアブラハム・ボンバに、そしてカメラに視線を向けるが、「いないようにして存在するしか術がないかのようだ」。
ホロコーストの生き証人としてアブラハム・ボンバは、ランズマンに選ばれ、床屋という日常の空間で、当時と同じく「髪を切る」という身振りをしながら、「ショアー」について話をする。話されている内容だけでなく、他の誰一人も会話をしない床屋の中で、彼だけが演劇的な声で話をする。再現=上演なのだから、当たり前なのだろうか。不自然さをそのまま、押し進めているとしか思えない。鏡へカメラを向けることにより、自覚的に、日常空間での、この再現=上演は繰り広げられる。ランズマンは上演を辞めない。客が入ってくると「No.No.」と静止させさえするのだから。

1   2  
3 4   
2の瞬間にランズマンの声が入る「だめ、だめ……、邪魔しないで」(「SHOAH」作品社)
アブラハム・ボンバは、言葉の途中で、一度気を取られるが、もう一度言い直す。

ランズマンは「もっと詳しく」と問いつめて行く。あろうことか、ガス室での髪の刈り方を真似しろとも言う。そして、もう一度、アブラハム・ボンバに質問をする。「質問に答えて下さい。全裸の女性が入ってくるのを見たとき、どんな感じがしたか訊きましたね」アブラハム・ボンバは「…感情など消え去るのです。何に対しても無感覚になります」と応えた後、大勢の知り合いの女性がガス室に連れてこられたこと。そして床屋として働いていた一人の友人の妻と妹が「ガス室に入ってきたとき…」と言い、口をつぐむ。長い沈黙が訪れる。アブラハム・ボンバは話すことをやめ、涙目になりながら、ハサミを動かす。タオルを手に取り、顔を拭くが、もはや言葉はない。再現=上演はここで終わる。再び始まるのは、冒頭と同じ「沈黙」だけだ。沈黙と、ハサミの音、車の音、靴の音。ランズマンは、この言葉のない時間を待っていたように思う。膨大に尽くされた言葉よりも、圧倒的な音の静けさ。
「エイブ 続けるんだ」とランズマン。アブラハム・ボンバは「無理だ…できない…もう勘弁してほしい」と言う。アブラハム・ボンバは、小さな声で、カメラの脇にいるランズマンにささやくように話す。「連中は髪を袋に詰め…」おそらくアブラハム・ボンバの(本当の?)声とは、たぶんこの声だ。再現=上演を通しつつ、ランズマンは、上演の不可能性とその挫折の瞬間を待っているように思う。そしてそれは成功しているだろう。待機の時間。言葉のない時間。そしてその後のささやきのような言葉は、「真実」である。だが、なにかが損なわれている。

                                            『ルート181』

かつて、「リッダ」と呼ばれていた「ロッド」の旧市街で話をしていた白いシャツの老人のシーンの後、カメラは爆撃を受け崩壊している建物のゆっくりとしたパンから、遠目に教会を映して、床屋にいる白いシャツ老人の姿へカットが切り替わる。崩壊している建物から教会へのインサート映像には、すでに床屋の中で話をする白いシャツ老人の声が重なっている。白いシャツの老人の言葉から床屋のシーンが始まる「What day was it ?」(別紙a)誰も答えない。その目線の先にいるのが、インタビューアーなのかどうかまだ定かではない。白いシャツの老人は「I remember it clearly」と話しを続ける。『ショアー』の床屋とは違い、昼間の光が行き届き、開け放たれたドアから外の車の音や子どもたちの遊び声が聞こえる。そして終始鳴り響いている扇風機の音。白いシャツの老人がしゃべり終わると、その扇風機のインサート(別紙b) 、そして、このシーンの重要な人物である床屋の老人が、なにかを見ているようなカットで登場する (別紙c)違う人物(緑のポロシャツの男性)の声がオフで入り、続いて、さきほどの白いシャツの老人の隣に座った、ポロシャツの男性が話しているカット(別紙d)となる。
白いシャツの老人が話し始め、今度は、座ってうつむいている床屋の老人のカットが挿入される。(別紙e)
白いシャツの老人一人のバストショットに変わり、今度は、オフで、隣のポロシャツの男性の声が聞こえる(別紙f)→ そのままパンで話しているポロシャツの男性へ(別紙g)話している途中で、さらに、なにかの準備をしている鏡に写る床屋の老人へカットが変わり、そのままパンダウンして、声の主体であるポロシャツの男性へ(別紙h)

時間は変わり、ようやく床屋の老人が話し始める。「政治家が書いた本は嘘だらけだ」と言い、隣に座っている青シャツの老人を紹介する。(写真h〜l)「He read the book and knows the facts. 」「His book is a whole web of lies.」

床屋の空間の中に、話す人が4人いるが、声の主体は、画面とのマッチングを回避し、オンとオフを再現なく繰り返す。
その間のインサートは、扇風機と、複数の時間の床屋の老人の3カットになる。すべてのカットで、白シャツの老人かポロシャツの男性のオフの声が聞こえる。外の車の音や子どもたちの遊び声や扇風機の音、そして字幕に現れる声の主体以外の声が、多くの場面で聞こえてくる。音の複雑性とは別に、床屋の老人のこの3カットでは、白シャツの老人とポロシャツの男性の二人とのカットバックか、話を聞いているように見えてしまう。切り返され、3人が応答し合っているように見えてしまう。そして床屋の老人の鏡写りのインサートから、ポロシャツの男性のパンダウン(写真c〜g)と、時間が飛んだ後の、床屋の老人から青シャツの老人へパンダウン(写真h〜l)が、2人と2人という組み合わせと、人物から人物へのパンの運動により、この2組の間に、相似形が出来上がる。そのため、あたかも彼らは4人、向かい合って話をしていかのように見えてしまう。↓


c    h
d    i
e    j
 f  k
g      l




そして、床屋の老人が、客の髪を切りながら話し始める。
In 1948 , I was 19
They shot everyone in the mosque. インサート
They locked them in one room …
  
イスラエル兵によるモスクでの300人の武器を持たないアラブ人の虐殺と、その死体を火葬し、埋めたことを語りだす老人。髪を切るという動作は、自然に行われる。普通の言葉で話すこと、そして、仕事をすることが、『ショアー』のような不自然さからは遠い日常の身振りとなっているように見える。「わたしの手が、わたしの証人だ。」と語る老人。監督は『ショアー』のランズマンと同じ質問をする。「How did you feel ?」と。

   Look … Bodies swell up after a few days.
しかし、唐突にまたオフの声で、白いシャツの老人の言葉が聞こえ、映像もさきほどの白いシャツの老人とポロシャツの男性に切り替わる。
  

    I saw him when I came to get the keys.
    He was carrying a corpse and an arm dropped off it.
I saw it. The stench was unbearable.
言葉自体は、「Look … Bodies swell up after a few days.」という床屋の老人への即座な応答のように聞こえるし、見えるのだが、この時点では、もう二人の老人は床屋にはいない。

  m
  n   o
カットはまた、床屋の老人に戻る。「We burned them.」「Burned them?」「 Right.」(写真m,n) この間、カメラは床屋の老人をパンで追うが、直前に発言をした後ろに座っているであろう老人たちの場所が見えそうになる瞬間にカットと割り、床屋の老人の話が続く「Many of those who fled died of thirst」(写真o)
この後も、明らかに画面上手の方を映さないようなフレーミングと編集になっている。
この後、床屋の老人は、髪を切るという仕事をしながらも、淡々と、しかし確かな口調で、ユダヤ人に「ゲットー」と呼ばれていたこの地区での暴力、家を奪われ、レイプされた女性もいたことを語る。

 Solders do what they like when no one’s watching.
 What memory pains you or angers you most ?
 That all the people we knew went away.
 Life went with them.
 Each demolished house is a memory lost forever.




床屋の老人の最後の言葉の中で、白いシャツの老人が彼を見ているカットが挿入される。彼は、床屋の老人が話しているとき、どこにいたのだろうか。実際に、この視線が、床屋の老人を見ているのは定かではない。しかしインサートやオフの声で、重層的に重なり合い、この空間での語りが、ただ一人ではなく、それぞれの個人が存在しつつも、記憶を共有しているかのようなリズム−それは現実には違う時間で構成されている−が、確かにあるように思える。シーンの冒頭にも現れ、この空間を特徴付ける扇風機の動くショットでシーンが閉じられる。

 『ショアー』のアブラハム・ボンバの床屋のシーンにおける違和感は、不自然な再現=上演のためでも、その後の上演の終わりとアブラハム・ボンバが感情をあらわににし、言葉を失う「証言の不可能性」のためでもない。むしろアブラハム・ボンバという人物を見ると、それは真実の瞬間であると思う。しかし、その瞬間を待つために、その再現=上演の舞台を構成させるために用意された人々のことの方が自分には、大きく違和として残った。演説的な不自然さで証言を話し始める床屋のアブラハム・ボンバの前で「いないようにして存在するしか術がないかのような」床屋の空間にいる客と他の床屋の従業員たち。おそらくアブラハム・ボンバは、この床屋で働いている人間ではないだろう。他の従業員は、水色と白のユニフォームだが、アブラハム・ボンバだけは、黄色いシャツである。いや、もしかするとアブラハム・ボンバは、この店の主人なのかもしれないが、それはここでは問題ではない。あくまでも日常の床屋の空間、つまり公共の空間で、普通に髪を切る身振りをさせるために、ランズマンはアブラハム・ボンバをこの店に連れてきたのだ。髪を切られている客も、待つ客も、他の床屋も、押し黙るしかない。鏡に映り込むこのような複数の視線は 時にアブラハム・ボンバに、そしてカメラに視線を向けるが、「いないようにして存在するしか術がないかのようだ」。なぜだろうか? 合わせ鏡の映像が、この再現=上演の虚構性をランズマンは自覚的に観客に告げている。彼らは、その舞台を作るためだけにそこにいる。つまり床屋という「日常」を構成させるための要素、として存在しているのだ。なにも、彼らにも何かを話させろと言いいたいわけではないが、このように普通の会話も禁じられ、ただエキストラとして日常の空間で息をしているのを見ると、腹立たしくなる。「ショアー」という得意性、そしてトレブリンカ収容所の生き残りとしてのアブラハム・ボンバの証言。その証言自体は尊重されるべきではあるが、普通に仕事をしたり、髪を切りに来ているであろう人々を押し黙らせる権利まであるとは思わない。彼らはランズマンのスタッフなのだろうか? 「ガス室での髪の刈り方を真似してくれ」と言うランズマンの要求に、アブラハム・ボンバは、白髪のくせ毛の男性の髪を掴む。一瞬、後ろの方でなにかざわめきのような声があったのだろうか。アブラハム・ボンバは、振り向くが、すぐに向き直り話を続ける。白髪のくせ毛の男性は、まったく怒ることもない。カット繋ぎのためにあると思われるインサートショットで、他の従業員の姿が映るが、彼はアブラハム・ボンバやカメラに視線を向ける他は、ただ関係なく仕事を続けるしかないかのように見える。『ルート181』のような意味を発生させうるインサートショットではない。もちろん、『ルート181』と比べるならば、そもそもの証言者の複数性はあるにしても、それならば、本当は、アブラハム・ボンバは、髪を切るのを辞め、座って話すべきだろうし、おそらくランズマンは、これより以前に、そのように彼の話を聞いたのだ。しかしランズマンは再現=上演を辞めない。彼は再現=上演が崩れる瞬間をこそ、撮りたいのだから。だが自覚的な虚構性故に、そがれるのは、はりぼての、この床屋の日常を構成している空間や人、物の方だ。アブラハム・ボンバは、この場面で、明らかに仕事をしていない。つまり手を動かし、本当の意味での床屋の「仕事」をしていない。演説的な台詞回しの「証言」の方に気を取られ、白髪のくせ毛の男性の髪はほとんど切られていない。その瞬間の彼の仕事は、このような床屋の身振りをしながら証言をすることであるのだから、仕方がないかもしれないが、その「仕事」をしていない彼の状況と、そのような状況を作るために「いないようにして存在するしか術がないかのような」他の人々の存在は、決定的に『ルート181』とは違う。
『ルート181』の床屋の老人は、本当に床屋を仕事としているし、彼の手のアップは、そのことを如実に示しているし。ここは彼の日常であるのだし、床屋の仕事も、知り合いの者たちも、あるいは、この床屋の空間を構成している扇風機も、仕事で使う道具も、『ショアー』の床屋のように「日常を構成させるための要素」ではなく「日常を構成している要素」として存在している。そしてまた、ロッド市の爆撃で壊された建物も、あの教会も…
もちろんアブラハム・ボンバに、床屋の仕事をさせろというのではない。しかし現実にイスラエルで生きている彼は、彼の生活があり、仕事があり、おそらく家庭もあるかもしれない。だが彼は今、ランズマンの演出により、わたしたちの前に「ショアーの証言者」としてしか存在していないのではないか。再現=上演の舞台の上で、損なわれるのは、アブラハム・ボンバ自身の(現在の)人となりだ。「ショアー」の証言の前には、(現在の)彼の人となりは関係ないのだろうか? ランズマンなら、関係ないと言うかも知れない。

『ショアー』に出てくる生き残りたちは、だれ一人として「私は」と言わない。だれ一人として自分の個人史を語らない。三ヶ月の収容所体験の後どうやってトレブリンカから脱出したかを言わない。それは私の関心をひかないし、彼の関心もひかない。彼は「われわれは」と言い、死者のために語り、死者たちの代弁者となる。
                          (クロード・ランズマン「ホロコースト、不可能な表象」)

それはホロコーストが「ある絶対の恐怖が伝達不可能である以上、自分の周囲に踏み越すことのできない限界を炎の輪のように作り出す」(クロード・ランズマン「ホロコースト、不可能な表象」)唯一な事態であるためだろうか。

「個人史」。ランズマンは、同じ言葉で「シンドラーのリスト」をシンドラーの個人史を通した物語であるということにおいても、批判しているが、「個人史」という物語そのものではなく、現在のある「個人」を構成している者や物自体は、映画を撮る上で問題にならないのだろうか。「死者のために語り、死者たちの代弁者」となり、「証言」をしながら「証言の不可能性」を言う存在。「ショアー」という表象不可能な事態を前に、しかし、私たち観客は、そこに「個人」を見ないのだろうか。違うように思う。フィクションであれ、ドキュメンタリーであれ、わたしたちはそこに「登場人物」や「個人」を見る。興味を向ける、関心を向けるという時、あくまでも「人」であるように思えるからだ。

「最大限に観客が感情移入できるように、ある人間の体験を伝えたいのです。観客がパレスティナ人であろうが、欧米人であろうが、感情移入をしてもらいたいのです」
                   (「パラダイス・ナウ」DVD解説、ハニ・アブ・アサド監督インタビュー)

現実。自爆テロにおけるステレオタイプの「崇高さ」ではなく、ただただ続いて行くこの異常な「パラダイス」の日常を示していた。揺れ動く「感情」を持ち、過去の歴史ではなく、その地続きに連鎖する現在。そこで生きる若者。

「ルート181」は、その撮影スタイルがタイトルにも現れている通り「journey」としている。床屋の老人たちのような重要な証言もあれば、「いいアラブ人は、死んだアラブ人だ」と言うイスラエル人の労働者や、アメリカへ向こうと言うアラブ系の若者。あるいは「ナクバ」の記憶を持つ取り残された家に住むパレスチナ人の母子の、イスラエル人に対する決定的な断絶の思い。それらの言葉が、仕事場で、家のベンチで、家の中で、道路で、結婚式場で、あるいは、戦車のある場所で、語られる。政治家でも知識人でもない、普通の人々の語りが、彼らの日常を構成している要素を映しつつ、監督二人の、彼らとの出会いの中で、描かれる。通り一遍ではない、それぞれの人生があり、彼らの語る言葉の全体は、交響曲になるのか、亀裂を深めるノイズとなるかは分からないが、少なくとも、私には、関心を寄せる「人々」となったことには違いがない。 
「共存は可能」と言うランニング中のユダヤ系の人の背後をひっきりなしに飛ぶ戦闘機が何度も映される。
青空からパンダウンして海が映されるのがファーストショットだが、「海に放り出す」という言葉も出てくるように、青空も海も開放感からはほど遠い。
「みんなが住む土地がある」と言われる、広々とした廃墟が点在する風景は、第一次中東戦争の結果だし、林も狙撃されたからと「ストリップ」される。

@アテネ・フランセ
ドキュメンタリー・ドリーム・ショー 山形in東京2024