ハロウィーンを楽しみ、クリスマスを祝い、除夜の鐘の音に年の明けるのを認めた後に初詣で神社に行く…というこの国にふんわりとある宗教観に乗れない私にとって、とはいえ寺(≒仏教)や神社を他の宗教よりはなんとなく重んじるものであるという不文律にも乗れない私にとって、今この国の人間の幾ばくが「それ」を真剣に信仰しているのか、というのは積年の疑問である。この映画はいくらかこの疑問への回答を示してくれたように思う。
一神教か否かが他国との違いなのだという「日本人論」はさておいて、次の年も生きられるようにという豊穣の祈りが先にあり、その祈りの対象として、神でも仏でも良い上位存在の概念を装置として作り出し、結果それが受け継がれる。降ろされている神の呼び名も定まらってはおらず、ワンカップの日本酒を片手に「俺はこう思うんだ」と語らう。神がどういう存在であるか、聖典に何とあるかというのは彼らにとり重要でない。ごく素朴な生活の安寧の祈りを向けるためにやっているのである。一定の作法は必要だが、その作法は神やお天道様が見ているからそうするのでなく、これもまたそうした方がよいという「それ」自体への信仰を思わずにはいられない。営み、受け継がれて、大切と「されてきた」ものへの信仰と言えばいいのか。鹿に見立てた草を射るときには「最後はもったいぶれよ」とヤジが飛び、(単に知らないだけかもしれないが)二礼二拍手一礼という「創られた伝統」を素朴に守る。対象自体は曖昧な、しかし大切な祈りのための信仰と、信仰のために重んじられてきた作法への信仰。諏訪の場合は作法に殺生が伴う。ただ登場する猟師は、鹿を殺す理由をごく感傷的な語り口で示すのみである。それでいて、猟師の良心の呵責のために文字通りの免罪符まで売られているのだから興味深い。神への捧げ物のための殺生を誰に赦してほしいのか?鹿ではないのだと思う。鹿は免罪符を発行しない。
資料が潤沢でない中、人々は自分の知識、経験でもって儀式を再現しようとする。電子ピアノでお経の「音程」を想像し、神へ供える芸能の再現のために、大河ドラマで得た昔の話し方を真似る。すゑひろがりずを見ているような可笑しさがないとは言い切れないものの、それが正確かはともかくとして、真剣であることは間違いがない。衣装を渡されたときは小突きあっていた子どもたちも、本番時はやはり真剣と見えた。誰がどこまで真剣なのか?という私の疑問は彼らにとって非常に野暮なものであった。幸い舞台挨拶のある回だったため監督の話を拝聴できたのだが、こういった曖昧なものがどう在るのかを撮りたかったとかいうことをおっしゃっていた。私のようなインテリ仕草とも、東京の資本主義的なものとも相容れないものがどう、諏訪に在るのか。この映画はそれを確かに示してくれた。
一方で、曖昧さがたとえ尊ぶべきものであっても、それへの批判全てを野暮だと一蹴することはできないと思う。冒頭で「動物を殺すな」という愛護団体の横断幕を撮り、その声に応えるかのように映画は始まる。では、真摯な応答がなされたか。これはハッキリ言って十分ではなかった。個人的な鑑賞体験の話だが、この横断幕が映された瞬間、劇場内で笑いが、私の思い込みかもしれないが嘲笑に似たようなそれが起こったのも気分が悪かった。決してそういう観客を慰めるために撮ったわけではないだろうに、結局最後まで見ても、その域を出なかったのではと思わざるを得なかった。
ちなみに、諏訪大社が神社本庁に属するということを観る前に確認しなかったのは幸いであった。知っていれば見ることをやめただろうし、上記の気づきもなかっただろう。この気づきにどれほどの価値があるのかはわからなくなったが。