蓮

アークエンジェルの蓮のレビュー・感想・評価

アークエンジェル(1990年製作の映画)
3.9
ガイ・マディン監督についてくわしくは知らなかったけれど、どうやら1988年に『ギムリ・ホスピタル』でデビューして以降は「デビッド・リンチの子どもたち」と呼ばれて、白黒映画をこよなく愛する撮影技法はカナダ映画界でも異端の存在とされてきた。

その再評価の流れに一役買ったのがアリ・アスター監督で、「初期のいくつかのシーンは、ガイ・マディン監督作品のパクリ」と公言するくらいの影響を与え、新作のプロデュースなどを行っている。彼と『オオカミの家』(2018)のレオン&コシーニャ監督との作風での類似も確認され、今ノリに乗った映像作家たちとの関係性もバッチリ確認されているー・・・(映画パンフレットより)



大学の教授が「トーキーが発明されなければ、映画はあと少しのところで(サイレントとして)完成していたはずだったのに」と語ったことがある。

この映画の面白いところは、20世紀初頭に興ったドイツ表現主義的な技法と(『ガリガリ博士』(1919)などおすすめ)80年代のスプラッター映画を組み合わせて、まじめに戦争の狂気を考えている。そしてまじめにトーキーとサイレントの融合を試みて、白黒映画の可能性を探っている点にある。

みずからのとび出した腸を使って敵の首を絞めようとしたり、気を失った子供の腹を馬の毛でこすることで起こそうとしたり、戦争によって死と生が極度にとなり合わせになった時に生じる倒錯、暴力、狂気。そうしたものが、これほど白黒映画と高い親和性を見せるとは。そしてトーキーとサイレント、映画表現の技法の工夫によって表現できるものなのかと驚いた。



戦争下にあまりに長くいつづけると、「明日死ぬかもしれない」「なぜ今生きているのか」などの自己嫌悪感がくり返しくり返し訪れるため、〇〇が好き、〇〇は嫌だなど「自己」が抗おうにも段々なくなってゆくという記事を読んだことがある。そして代わりにそこに入り込むのが「いつ動員されるか分からない」恐怖。それはいつしか憂鬱と倦怠に変わり、精神は壊れた町同様の状態でさらされつづける。つまり戦争とは、1人の人間を精神的な面で取り返しのつかない方向へと曲げる。

この映画は、生活が壊れるとは、自己が破壊されるとは、戦争とは何なのかをたっぷりと教えている。

みんなサクッと動員される。そしてサクッと殺し合いに参加する。それが彼らにとっての"平時"になると、普通の生活はみんな嘘くさくてテキトーになる。何のために生きているのか、何のために他者と出会うのか、何のために愛するのか。何のために人と出会うのか。そうしたものが、瓦解した人格の中で錯乱する。それがあまりにも悲惨なのだ。


戦争がおこったら、とにかくすぐ逃げることを考えよう。それがすべてである。
蓮