むかし、わたしに大きな影響を与えた友人が、「日本人は東京大空襲と原爆投下に原存在を見出して生きるべきだ。何かをクリエイションするべきだ」と言って、その時はさっぱり分からなかったけれど、それからそうだなあと思うようになってそうやってものを考えるようになって、でも時々忘れて。26年が過ぎたわけだけれど、今だに愕然とするのは「まだ80年しか経っていないのに人はそれほど忘れるか」ということである。
原爆を投下してから80年。
第二次世界大戦が終了してから80年。
沖縄戦が終わって80年。
『なんで原爆投下に原存在(自己)を見出して生きなくちゃいけないワケ?』と思うくらいには、忘却の前になすすべなし。記憶はあまりに脆い。集団の記憶でさえそうなのだから、個人の記憶ならば尚更。
日本が工業化した時もそうだった。原爆を投下されてなお、「原発」に希望を見出す大人子どもの手記(『原爆の子〜広島の少年少女のうったえ』(1951)より)を読んだ時もそうだった。
そしてこの、最終的に原爆を完成させたオッペンハイマーたちもそうだった。
そしてこの映画『オッペンハイマー』もそうだった。
この映画がアカデミー賞最多7部門を受賞して、インタビューで「アンサー映画を日本人として作らなくては」と語った山崎貴監督の『ゴジラ-1.0』もそうだった。
人間というのは、よりインパクトの強いものに惹かれるたちで、命や尊厳・地球環境のことは「犠牲の上にはやむなし」「まあ仕方なしよ」と切り捨てることに長けていて、そして黙示録の世界にまでつき進む。
(やはり「人間」はプロメテウスの子供である。その「人間」が、何を指すのか分からぬが。思えばプロメテウスはゼウスから「火」を盗んだとされるが、「火」を象徴とした「天を総べる支配者の眼差し」であるだろう。とすると、ここでの「人間」とは、「天を総べる支配者の眼差し」を得た生物のことだ。その証拠に、この映画のラストシーンは、まさしく〈火〉〈地球を俯瞰した図〉〈オッピーの視線〉の揃い踏みだったな...)
80年前に"原爆投下後の広島/長崎"という黙示録を見た世界は、こうして0からまた、バベルの塔を尻目に「天を総べる支配者の眼差し」を建設し直し、「バーベンハイマー」というコラ画像を現在では楽しむまでに成長した。(彼らは"オッピー"がプロメテウス自身となったことに絶望するシーンを見たはずだが)
この映画をスクリーンで見ている時、「キライだ。キライだ。大キライだ!!」とエレン・イェーガーもびっくりの強度でノーラン・製作陣・演者すべてに呪詛しかかけなかったわたしだが、今では自戒を込めてクリストファー・ノーランの手法に注目している。(あゝ悲しい、わたしの中の支配者の眼差し)
------ここから全く違う2つの意見①-------
『ラストマイル』(2024/塚原あゆ子監督)を見た後でよくよくその手法を考える時、「あれってアテンション・エコノミーじゃね?」と思ったわけだ。要は〈関心〉を持たせ続けるために刺激と情報量を観客に与えつづける。観客は、考える暇もなくその大量の視覚情報を浴びつづける。「なんかよく分からなかったけど、面白かった」をゲットすれば勝ちの世界。
現代における複雑怪奇で多様な社会と人々の生業を描くには、それが必要なのかもしれないが、『ラストマイル』は事件が矢継ぎ早に起き爆発が起き、アメリカに行き、首謀者は現世に別れを告げる。見ている間は深く「なるほど」と思うことが多いが、今ではもう「スナック菓子」を食べたくらいにしか感想を抱き得ないくらいにボロボロだ。
エンターテイメント。
『ジョーカー2』でも議題に取り上げられたこの魔術は、今では、「考えさせたら終わりだ」くらいに思っているのかもしれない。「考えさせたら」批判が出るかもしれない。炎上するかもしれない。〈多様性〉推進ハリウッドでは、「みんなを納得させること」こそエンタメで、娯楽に必要なのは批判精神ではなく受容精神。ありのままの自分。ありのままのあなたを受け入れる寛大な心が現代では作り手だけではなく観客にまで求められ、需要できなかった人はトランプ支持者となったか。(まあただの戯言)
アテンション・エコノミーは、リールやYouTubeでも散見される「多様性・自由主義社会」の基準だが、この『オッペンハイマー』も漏れなくその一員であったことが、わたしに嫌悪と自戒を催させた。
第二次世界大戦下における原爆の開発と「原爆に関係あるようで関係ない」裁判をかけ合わせるグロテスクさ。全ては同じテーブルに広げられ、(なぜか広島の惨状はテーブルの上に掬われずに)最後はあいまいに終わり、「なんかよく分からなかったけど、面白かった」のサークルを生み出す。
ジーンは精神科医(的なれっきたした立場ある女性だったものの)結局はセックスマシーンとして終わり、キティーは生物学者(的なれっきたした立場ある女性だったものの)結局は子作りマシーンとワイフの立場に終わった。こうした惨憺たる人物描写も、アテンション・エコノミーに準じる脚本の前では、「なんかよく分からなかったけど、面白い」に変わるのである。ジーンのありのままはあれで、キティーのありのままはあの姿なのだと受容する形で。
そういう現代におけるエンタメのカルチャーの土俵で、「原爆」は扱われたのである。そこで「原爆」は、人々の〈関心〉を得るためのイチ手段にしか他ならず、「原爆の犠牲者」は「考えさせちゃうからダメ」の領域である。
---------------主張②-----------------
ハンナ・アーレントは「全体主義の起源」にて【全体主義運動はアトム(原子)化され孤立させられた個人の大衆組織だ】と言った。
クリストファー・ノーランは、オッピーのみならず登場人物と事象のすべてをこの、「原子」として使った。なぜならそれが、最も強いからだ。まるで「原子爆弾」のように。
その結果による強度は見ての通りの出来栄えで、ワンシーンワンシーンごとに緊張感でみなぎっている。
しかし、わたしは思う。『オッペンハイマー』がこれほどの強度で時代に適合したことに危機感を抱いてもいいのではないかと。
それは、この映画だけではない。いくつかの映画とその親和性の高さから、まるでナチスを礼讃したドイツ国家の社会のような、国民のような、そんな危うさが芸術からプンプン漂う時代になった。