Re:「そ、そんなに本当のことばっか言わなくってもいいぢゃんか…!」やないかい。そして『君(俺)たちはどう生きるか』。
序盤は、まるで独居老人の観察日記のように進む。ルーティーン、食事、限られた交友が繰り返される日々。
渡辺儀助(長塚京三)はもと大学の仏文教授であり、妻に先立たれ独り身にも慣れた風の生活は有閑階級的というか、現代では優雅といえなくもない。しかし確実に経済的な限界を実感してもいて(全編のモノクロが彩りのなさに拍車をかける)、機械的な計算から自ら幕引きの日=Xデーを決めて準備している、なんてことがわかってくる。
それは知識人らしく達観した理性的な態度…に見えるけれど、実際はちょっと違う。端々の会話や、映画の主原動力となる儀助の《夢》描写から滲み出るのは、隠しきれない「(男の)見栄と寂しさ」である。
それはたとえば、彼の交友にも現れている。個別限定的な付き合い、その相手は教え子の面々であったりして、彼が老いてなお「優位に立てる」相手ともいえるだろう。それが意識的ではないにしろ…いや無意識的にであるからこそ余計に、彼の矮小さを浮き彫りにする。しかしこれは多くの人、とりわけ全成人男性にとってはまったく他人事ではない危機感が強制共有されることと思う。
そんな教え子の一人・靖子(瀧内公美※1)やバーで出会う女学生・歩美(河合優実)へのレイヤーが異なる、だが確実に存在する欲望。しかし、なまじ知性とこれまでの地位(優位性の根拠)等があるぶん、欲求のまま大胆にもなりきれるわけでもない。
老いてなおやはり彼はただ平凡に男なのであり、左脳的な理性でコーティングした見栄と寂しさという恥の自己弁護から逃れられない。非常口があるとしたら、思いつくのは《死》だけなのだ。
これは原作小説にもあったエッセンスだけれど、今作では演じる長塚京三氏によって、より「いたたまれなさ」が増していると思う。(※2)
原作では筒井康隆氏らしい飄々とした筆致も手伝って残る鼻持ちならなさ、だがそれ故の滑稽さが気楽でもあったけれど、この映画版ではより見てられないって感じになっていて(これは自分が男性であることもかなり大きいと思う)、ところどころヒ、ヒ、引き笑いつつ大いにしんどいぜ。
さて、映画が進むにつれ、儀助が夢を見ては独り起きる(なんかこれだけで胸が静かでいられないのだけれど)さまが増えていき、どこまでが夢でどこからが現なのか、段々と境界は曖昧になってくる。独居ゆえに人知れず・我知らず進行する痴呆あるいは老衰の兆しとも捉えられ、確かな恐怖感が募る。(※3)
夢でも現実でも、映画の舞台は儀助の済む一軒家の日本家屋にほぼ収まるわけだけれど、この家は儀助の心そのものではないか、と思えてくる。
物置に積もった先祖にゆかりのある品々、棄てられない妻の遺品、本棚に並ぶ彼のキャリアをトレースする書物、限られた人々が(夢の中で)集まる食卓。庭の水が出ず蓋された井戸は、いわゆる深い《本音》へ向きあえないということか。深層から表面までの意識が表現され、彼のルーツと半生が総てここにある。
それに、「古くなっているが処分もできない」。儀助はあらかじめ準備している遺言書の中でも、この家を安易に売ったりせずにできるだけ残してほしいと願っている。つまりは、周りに迷惑をかけず死にたいなどと言いつつ、なんだかんだ自分のことを忘れないでほしい・必要としてほしい、というシンプルな願いが窺えるところだ。
すると、自ずと《敵》の正体についても合点がいく。
"敵です"のタイトルで届いた謎のメール、ただの悪戯チェーンメールかと思えたメールに、儀助の現と夢は共に侵食されていく。「北の方からやってくる」という《敵》は、ついにその終盤において、襲撃されるイメージで混沌を極めた夢の中、儀助の家の中に隠れていた。(※4)
つまるところこの家が儀助の心なのだとすれば、《敵》もまた彼自身の一部であり(※5)、彼の内側にずっと存在していた精神の一側面であっただろう。原作ではダイレクトに"老醜め。臆病め。自堕落め。…"と、自覚する悪癖を《敵》と重ねている。そして、それらが徐々に近づいてくる…というイメージは、《敵》が目を背け続ける死の予兆でもあることを示している。
人を殺すのは病か、痛みか、寿命か?いや、現代人にとって真に致命的な《敵》は、イコール最も恐れる《死》とは、意味のある何かを遺すことができず孤独に死んで人から忘れられること…という呪いのようにこびりつく恥の観念なのかもしれない。(※6)
では、どうすれば《敵》を克服できるのか?そのひとつのキーとなりそうなのが、アリストテレス(批判)である。
何故いきなり?かといえば、原作にアリストテレスのいう《アルケー》(万物の根本原因)について儀助が講演で解説しだす場面があるのだ。怒られるのを承知で滅茶苦茶ざっくり言えば「万物の原因を逆算で辿りまくっていくと、唯一不動の存在がいると考えるしかないよね」みたいなことであり、神の存在証明として語っている。
この概念を転ずれば、物事の原因を分析して不動の神に近づく探求的な生き方が幸福で理想、というようにも言えて、その態度は儀助の「理性的な」生き方と重なる。というか、理性への信奉はわたしたちが文明的であると認識している人間社会の根本を長年に渡って支えてきたイメージだ。
一方、儀助はそのような生き方で幸福を得たといえるだろうか?
亡き妻や靖子に真の想いを告げることもできず、死までの時間を冷静に計算して虚勢を張ってみても恐怖からは逃げられなかった(そもそも死をコントロールしきることはできない)。もっと素直に、会いたい人には自分から会いたいと言い、怖ければ助けを求めたりできていれば…?殻(家)(心)に籠るのではなく、夢の外でも対話ができていたら…?
映画ラストのシーケンスは原作にはないパートだ。このパートが足されていることによって、より結果がクローズドに近づくと同時に、理性的に生きても儀助には消しきれない《未練》が残ったことが強調されていると思う。原作と比べてより迷いが残ったような結末に、現代となって加速した厳しさを見るようである。
まったく今年は初月から前門の『I Like Movies』・後門の『敵』、といった感じで過去も未来も甘えを許してくれず、ほんとヤんなっちゃうんだぜ。
しかしある意味、これで残されたのは「今しかねえ」、ともいえるし、神とか理性とか世間とかいう朧なもののために時と命を浪費するより、いろんなことを飽きるほどヤり尽くしておいた方が良い、と受け取ることもできるだろう。
そうすれば、いつか《敵》と書いて《とも》と呼べる日が来るの?僕らは~今の~なかで~~♪
-----
※1:なんて見事な「愛人顔」なのかしらとあらためて実感そして感嘆。Netflixの是枝監督版『阿修羅のごとく』然り。
※2:夢の中の靖子に「あれはハラスメント」と言わせたり、自らの生活水準について「今では贅沢といわれる」と言う、このあたりは原作にはなかったラインであり、今作が設定を現代にして語り直された意味を感じたりもする。もぅやめてあげて。
※3:今作は緩やかな『ファーザー』といえるのかもしれない。
※4:この家=心の中にどかどかと異物が入り込んでくる図…といえばD・アロノフスキーの『マザー!』を思い出したりも。
※5:原作では、夢の中の登場人物=誰もがみな自分の一部、という構図についてより直接的な言及がある。夢の中の妻に "あなたの夢の中に出てきたんだから、この人だって矢っ張りあなたでしょうが。" と叱られるのだ。
※6:近いマインドをもつ映画が『オール・ザット・ジャズ』。原作ではこの映画についてわざわざ語る章があり、テーマの繋がりがわかる。
今作と『オール~』は静と動といえるほどそのムードにも主人公のキャラにも差があるけれど、重なる点は多い。現実と夢が交錯する点、死の意識に囚われた主人公が表面上は平気な顔をしつつも内面では逃げ続けている点、自らの功績に満足できず意味を感じられていない点、そして結局「自分の話に閉じている」点だ。