アキ・カウリスマキ版『アリラン』とでも言うべき、監督自身を被写体としたドキュメンタリー。
彼の作品は『枯れ葉』ぐらいしか観たことないが、彼のこの地元にある人々の営みや場末感が原風景として、インスピレーションを与えているのが伝わってくる。
『アリラン』を引き合いに出したのは、有名な映画監督が被写体になる時の「何やっても成立する」という感覚が本作にも備わってるからだ。
映画には(タランティーノとかヒッチコックとかはいるけど)
は原理的には映画監督は映らない。だからこそ関心が生まれて、観客惹き付けられる。それが有名な監督だから尚更で、そういう監督の一挙手一投足が意味を持ちうる特殊な磁場に「ずるいなぁ」と思いながら観ていた。
特徴的な演出は二つ。
①フィックスショットの前での"自然"な会話。(馬や車の場合もある)
②ラジオやテレビのような間接的なメディア利用、ここには場内放送のような形式的な情報伝達方式も含まれる。
①に関しては、まるでワイズマンのような「自然な会話」を撮ってるようだが、作為的な会話が展開されていく。特にドキュメンタリーの前提を伝える冒頭の会話は、明らかに準備されたものだろう。
ただ後半にいく連れて、どうでもいい「映画の話」に埋もれるようにして、どんどんその境界が曖昧になっていく。
恐らくそれは本作自体がドキュメンタリー特有のガチガチな構成とは無縁で、劇映画のような物語進行とも掛け離れているからで、良い意味で「無意味な映像」ばかりで作られているからなのだ。要点のない会話がセンスだけで繋げられていて、ただそれを観ている体験。
物腰の軽さ、映画館を作るというドキュメンタリーながら、じゃあその初日を劇的に映すかというそうでもない。出来たばかりの映画館に掛かるのは、この映画自体であり、装置的にしか使われない。素っ気ないのだ。だが最後のアンドレ・バザンの「映画とは?」で、この生活と映画を繋ぐ場所として「映画館」を総括してしまうので、なんだかそういう営みの中にある《映画館》として相応しい描かれ方だと納得させられてしまう。
②これも映画の前提を伝える方法として採用されるが、面白いのが進捗や周囲の映画館に対する期待感等がこのメディアを通した間接的な情報として展開されているところ。
「アキ・カウリスマキが映画館を作る」ということのインパクトがあるからこそ、このやり口ができる。
自然と注目が集められていることが示唆できるし、ナレーションの形を取らずに済んでいる。
田舎の街がちょっと浮き足立っている感を演出できているのもこの方法のおかげだろう。凄くいい。
対して意味の無い会話ばかり、特に映画の話なんて聞いてどうすんだみたいな内容ばかりだけど、それで成立しているのが凄い。ずるい。