【日本とドイツの違い】
1972年に西ドイツで開催されたミュンヘン・オリンピックで、パレスチナのテロリストがイスラエル選手を人質にとった、実在の事件を扱った映画です。
ただし、事件そのものを正面切って描くのではなく、アメリカのABC放送がオリンピック中継のために西ドイツに派遣していた社員たちが、思いがけないこの事件に際会して、どう対応したのかを映画化しているのです。
アメリカの他局との兼ね合い(当時は衛星中継のチャンネルを分けあって使っていた)だとか、報道の自由とテロへの対処との整合性だとか、さらには自局の報道がテロリストに見られてしまい、それが警察がテロリストに対処することの妨げになってしまう、といった事情にも触れられています。また、自局内で、こうした国際的な事件を扱う報道局と、西ドイツに派遣されていたスポーツ局との対立なども、興味深い。
この映画にはマリアンネという西ドイツ人の若い女性が(アメリカの放送局に通訳として雇われているという設定で)登場していて、印象的です。アメリカ人スタッフは、彼女の両親のナチ加担について質問したりして、私としては「ヤンキーは無神経だな」と思ったのですが、作品全体を見終えてから考えると、西ドイツがいわゆるホロコーストをふまえて、この種の事件に対処する場合に色々と神経を使わなければならなかった事情を先取りして説明していた、とも受け取れるでしょう。
ともあれ、事件は悲劇的な結末を迎えます。しかし、そこに行くまでに、西ドイツ側の報道にも問題があり、この種の事件の報道がきわめてデリケートで難しいということを、映画が教えてくれていると言えるでしょう。
日本人である私が思ったのは、1964年の東京オリンピックでこの種の事件が起こらなかったのは幸いだった、ということでした。当時私は小学校6年生だったのですが。
1964年の東京オリンピックは、日本が敗戦後の荒廃から立ち直ったということを示す大イベントでした。そして、当時は昭和天皇が健在であり、東京オリンピックではIOCの会長が昭和天皇に開会の宣言をすることを要請するというシーンも設けられていた。
つまり、日本は第二次世界大戦の敗戦国だったけれど、そのことがオリンピック開催にあたって大きな問題とされることはなかった、ということです。まあ、日本は本来はそれ以前にオリンピックを開催するはずだったのが、第二次世界大戦でお流れになった、という事情も反映していたでしょうが。
これに対して、ドイツは1936年にヒトラー政権下でベルリン・オリンピックを開催しています。
次のオリンピックが日本の1964年から8年遅れとなったのは、やはりナチ・ドイツのホロコーストが影響していたと見るべきでしょう。
ただ、この映画で見て取るべきなのは、西ドイツ政府がテロリストの要求を受け入れなかった、という点です。
その結果、イスラエルの人質となった選手が全員犠牲となったわけですが、これはドイツという国家がそういう選択をしたからというより、テロリストの要求は拒否する、というのが西洋の基本的な常識であるからです。なぜなら、こういう場合にテロリストの要求を容れたなら、続けて同様の事件が起こるだろうからです。テロリストには毅然とした態度で接しなければ、テロリストを思い上がらせることになる、というのが、欧米の常識なのです。
そして、このミュンヘン・オリンピックのテロでは犠牲者を多く出した西ドイツでしたが、これを機にテロ対策要員の養成を行ったのでした。
ミュンヘン・オリンピックの5年後の1977年、西ドイツと日本は、相次いで飛行機ハイジャック事件に見舞われました。
そのとき、西ドイツ政府は、ミュンヘン・オリンピックの事件を機に養成した特殊部隊を派遣して、飛行機内でテロリスト全員を射殺しました。乗客は全員無事でしたが、機長ひとりだけが犠牲となりました。
これに対して、日本はテロリストの要求を当時の福田赳夫首相が飲んで、刑務所からテロリストを釈放しました。しかし、その後日本も、この種の事件に対処するための要員を養成することとなりました。
日本はヨーロッパと違ってユダヤ人迫害の歴史がないので、イスラエルとパレスチナの紛争ではパレスチナに同情しがちです。
例えば重信房子などのテロリストがパレスチナ側に加担したのが、いい例でしょう。
しかし、パレスチナ・ゲリラの行動も、いかにパレスチナがイスラエルに圧迫されているにしても、到底容認できない部分があることは、このミュンヘン・オリンピックの事件を例として、知っておくべきでしょう。
そして、オリンピックは本来は政治とは距離をおいたスポーツの祭典であるはずですが、実際はこのように政治に翻弄されてきた、ということもです。
1964年の東京の次は1968年のメキシコ・オリンピックでしたが、その直前にソ連が軍隊をチェコに派遣して、チェコの自由化、いわゆる「プラハの春」を踏みつぶすという事件が起こりました。
その結果、メキシコ・オリンピックではソ連の選手に対する風当たりが強くなった。
最も顕著だったのは、女子体操です。
チェコの女子体操選手チャフラフスカは、東京オリンピックで女子体操の個人総合で金メダルをとり、また美人でもあるので、世界的に人気がありました。ただし体操選手としてのピークは東京オリンピックのときで、4年後のメキシコ・オリンピックでは盛りを過ぎていました。
他方、ソ連の女子体操選手であるクチンスカヤは若くて上り坂の選手で、メキシコ・オリンピックの女子体操金メダル有力候補とされていた。しかも、映画アイドルみたいに可愛い容姿だったので、当時は日本の高校生にも人気絶大だったのです。私も当時は高校生だったので、そのことはよく記憶しています。
けれども、メキシコ・オリンピックの体操会場では、チェコのチャフラフスカには観客から大きな声援が寄せられたのに対し、ソ連のクチンスカヤには罵声が浴びせられたのでした。言うまでもなく、ソ連のチェコ侵攻を背景にしてのことです。
そのためかどうかは分かりませんが、クチンスカヤは段違い平行棒で途中転落するという失敗をしてしまい、結局女子体操の総合では東京に続いてチャフラフスカが金メダルをとりました。
チェコのチャフラフスカは、母国を愛しソ連のチェコ侵攻を認めないという態度で一貫していました。チェコがソ連のくびきから解放されたのは、1968年のソ連侵攻から、実に20年をへてソ連が解体した時点でのことです。彼女は体操の女王だっただけではなく、信念の人でもあった。
けれども、自分より若いライバルだったクチンスカヤについては、後年、メキシコ・オリンピックで観客からの反感を浴びながら演技しなければならなかったことを、気の毒だと思ったと回想しています。
オリンピックは、ことほどさように、政治の場でもあったのです。
ちなみに、1936年のベルリン・オリンピックでも、類似の事情がありました。映画『栄光のランナー 1936ベルリン』をごらん下さい。