クシーくん

ボウリング・フォー・コロンバインのクシーくんのレビュー・感想・評価

3.7
アメリカの病巣を描いたドキュメンタリーとしては中盤ダラダラした部分もあるが確かに秀逸だったと思う。
ムーア監督の映画は面白い。惹き付けられる。ロッキード社広報社員のインタビュー後に流れるアメリカ残酷史は映像はともかく、あくまでも客観的な数字しか流れないし、サッチモのWhat a Wonderful Worldにのせる悪趣味さは頂けないが「なぜアメリカはこれほど世界中から嫌われているのだろう?」という疑問を日本人には勿論、当のアメリカ人にも恐らくよく分かっていない層がいることを踏まえて端的に、明快に表現する。
全体的に分かり易く、皮肉なジョークを散りばめるのが監督の持ち味なのだろう。

「なぜアメリカは銃による殺人が多発するのか?」隣国カナダの銃所持率は高く、貧困率、多人種国家など、アメリカと遜色ないにも関わらず、銃犯罪は圧倒的に低い。アメリカ人が残虐だからか?否、かつて戦争で多くの人命を損なったドイツや日本の殺人件数は極めて低い。いわんや銃犯罪をや。ムーア監督はこの疑問に貧困と人種差別問題、そしてメディアが煽動する恐怖の解を与えている。分かり易い。「恐怖」の代表格であるマリリン・マンソンの言葉が象徴的だ。「よその国を爆撃している大統領が国民に与える影響力はメディアは問わない。…大統領のせいで事件が起きたとは誰も言わない。メディアの望む恐怖の生産法とは合わないからだ」
説得力に富む。ハッキリと言わないまでも国民が潜在的に抱えている不安と疑念を克明にする。

ただインタビューを行うだけではない。彼は動く。コロンバインで負傷した学生を伴い、犯人が弾丸を購入したスーパーの本社へ銃弾を販売しないよう呼びかける。最初はけんもほろろな対応だったスーパー側も、ムーア監督の執拗な(その店で銃弾を買い占める、マスコミを呼んで一部始終を撮らせる)説得によってついに銃火器類一切の販売をやめさせるくだりは感動的ですらある。

だが、猜疑心の強い私は本作を見て非常に煽動的な、独善の臭いを感じた。
オリバー・ストーンのように馬鹿正直ではなく、一見優れたドキュメンタリーの体裁が保たれているだけに、より巧妙に悪意が隠蔽されている。「サウスパーク風」アニメがその悪辣を如実に表現している。彼の語るアメリカ史では「黒人たちは奴隷から解放されても白人たちに復讐しなかった。彼らは争いよりも平和を望んだからだ」そうして黒人のアニメキャラはさも平和そうに花を摘みその匂いを嗅ぐ。果たしてそうだろうか?黒人たちが自分たちに危害を加えるに違いないとコーカソイドがネグロイドをリンチした事実は確かだ。しかし、安易だ。余りにも安易だ。それほど単純な話ではないだろう。歴史というものをシンプルにユートピア的に処理し過ぎている。これでは方向性は違えど「南部の唄」と根差す所は然程変わらない。そしてそれらは一種の諧謔として意図的に行われている。私は自らの猜疑心故にこうした監督の卑劣とも言うべきやり口を許容出来ない。彼の手法は煽動的で「面白い」メディアの手法とさしたる違いはない。だからこそムーア監督の映画は惹き付けられるのだ。彼のアポ無し取材が良い例である。メディアも生にこだわる。台風の日にお天気リポーターが外で実況中継をする。「外出は控えて下さい」と外でずぶ濡れのキャスターが言う。これに一体何の意味が?その方が良い絵が撮れるからだ。ドキュメンタリーとは言い条、社会をテーマにした娯楽に過ぎない。彼は本作の中で銃乱射のあった学校の中に入ってインタビューをせず、その外で適当にレポートをするメディアを非難する。しかし、彼もまたそのメディアと同じ手段で人々に訴えかけているのだ。

最後のチャールトン・ヘストンへのインタビューは哀れな老人の家に押しかけ正論じみたものをぶつけて苛めているようにしか見えない。晩年ヘストンはアルツハイマー型認知症であることを告白していたが、恐らくこの時期既に闘病していたのだろう。映画はあらゆるものを切り取る。ムーア監督はヘストンから明快な回答など得られぬことを百も承知で矢次早の質問を浴びせた。私にはムーア監督の質問に背を向けて逃げる姿というよりは家に押しかけた活動家が老人を苛むようにしか見えなかった。最後に殺された6歳の少女の写真をヘストン邸の柱に立てかけて去る辺りはおセンチを通り越して醜悪である。私はムーア監督が人々の感情に訴えかける映画を撮れうる巧者であればあるほどその技術に言い知れぬ悪意を汲み取らざるを得ない。
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