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シックス・センスのotomisanのレビュー・感想・評価

シックス・センス(1999年製作の映画)
4.0
 鋭敏な観衆は早くからウィリス医師が冒頭、ヴィンセント君との一件で死亡しており、以降ほぼ全編で幽霊状態だった事に気づいていた模様だ。すると、コール君が幽霊医師だけに「死者が見える」と告白したものなら、医師のコール君に関する所見は秀才ながら神経過敏気味な「化け物」コール君のケアを担当する生き身の面々には何も伝わらなかった事も見抜いた事だろう。
 つまり、当初化け物扱いだったC君がついに学芸会で若きアーサー王に抜擢され人間界に復帰するに至るも、幽霊医師の功績は世間的にはないも同然という事である。あくまでもC君自身の内省と努力とケア・メンバーの深慮の成果だけがカルテに記された事だろう。

 しかし、C君の努力の背景には幽霊医師と積み重ねた対話がある。また、その結果として、幽霊を追い払う策を模索するのではなく、幽霊の現れる事情を訊ね、この世への未練を断ち切る要件を求め、それを叶えてやる事が成仏への道を付ける事にもなると知れるのだ。
 幽霊のおかげで人間界を生きることに大弱りなC君であったが、幽霊医師のおかげで幽霊を生き身の人の延長上の存在として感得したなら大成長だろう。そして、その成仏業の仕事始めに母親に謀殺されたキーラの告発を代行し、おそらくその妹の命も救うことになるのだ。

 このようにC君が異能を秘めつつ生きてこれある意味を掴むかどうかという一方で、C君はウィリス医師もまた幽霊であることにも気づいていた事だろうが、彼は遂にそれを医師に告げることはしない。少しもうれしくないだろうが幽霊と共存で自立を遂げ再び会うことはないのをほのめかしながら、互いの務めとして大事な人との対話を約束して別れる。そのとき、ウィリス医師がC君の告げた、眠っている間に話しかける、の意味をどう受け取っただろう。
 細君にはもう姿が見えない医師であれば、その夢の中に立って互いの真実を交わし合うことが唯一の道であることをC君は教えているのである。それは同時に医師が自らの死を悟る過程となるかもしれないともC君は察していたかもしれない。再び医師と会うことになれば、それは医師にとって本当の不幸に違いないが、その時はその時のことである。

 幽霊が見える事はこころの桎梏であれ最早世間に暮らす人としてのハンデキャップではなくなったC君にとって、急務は母親との関係修復である。そこでは幽霊の件を受け入れてもらう以外に関門はない。監督はそのプロセスとして早くに亡くなった祖母と母親の疎隔をほぐし、祖母の愛情を不確かに感じ続けた母親にそれと確信させる仲介を取るタスクをC君に課す。
 そこで、祖母の言葉として、C君は母親が墓前で投げかけた問いの答えとして「もちろんよ」と述べる。その問いとは何であったか、これを母親自身に語らせるのが「わたしを愛してくれてた?」である。
 これが誰にとっても変わらぬ問いであり、C君からの問いでもあり、また、医師に対する細君の問いでもある。その答えもまた同じく「もちろん」である。生きたもの同士の口から耳へ交わされ、生きた者と死んだ者同士の夢の中で交わされる事で幽霊は成仏できるのだろうか。
 こうしたことを誠に淡々と描いた監督は業に迷った人間を殊更浅ましげにあげつらい鬼面で人を驚かすことはしない。あるいは幽霊が中途半端に損なわれた生をC君の手を借りて収められれば、それはあるいは正義の一端を担う事とも解釈できるだろう。また、こんな幽霊をきりなく生み出す生身の世界の性悪さこそ化け物じみているのではないか、と告げるようでもある。
 そうと気づけば世界に一人の霊能者、見えないはずの幽霊が見えてしまうC君の、これは生きて解脱する第一歩であろう。こんな厄介事からも相手を救うことでこちらも救われるのだと告げるようでもある。こうしてC君の波高き人生が始まり、ウィリス医師の冥界行きが決まるかに見えるのだが、どうしても医師の心の迷いはこれから、愛の日々をめぐる走馬灯で物語が終わるここから始まるように思えてならない。殺し文句の様に発せられる「愛」のひとことが死にきれない医師をこの世に止める足枷ともなるのではないか。いつか、C君と医師の対決があるような予感を覚えながら監督はその話を採用しない気がする。
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