ノットステア

西の魔女が死んだのノットステアのレビュー・感想・評価

西の魔女が死んだ(2008年製作の映画)
3.5
○感想
のんびりゆったりとした作品だった。
原作が小説の中でかなり好き。やっと映画を観ることにした。
この映画は原作に忠実に作られていた。ほぼ同じ。
だけどなんか、あんまり好きな映画ではなかった。なんでだろ。

以下、ネタバレあり












○映画を観ていて印象に残った場面

母は電話でまいのことを「扱いにくい子」と言う。それを自分の部屋でまいは聞いている。

おばあちゃん「まいは正しいかもしれない。そうではないかもしれない。大事なことは今まいの心が疑惑とか憎悪でいっぱいになっているということです。」
まい「私は真相がわかったときに初めてこの疑惑や憎悪がなくなると思う。」

おばあちゃん「そうでしょうか。私はまた新しい恨みや憎しみが生まれるだけだと思いますけどね。そういうエネルギーの動きはひどく人を疲れさせるとは思いませんか?」

ゲンジさんのことでおばあちゃんがまいに怒った日の夜、おばあちゃんは家で一人タバコを吸っている。
(あれ?原作にはなかったシーンだと思うし、タバコを吸うおばあちゃんだったっけ???)

母「私には何がいちばん大切なのかっていう優先順位を考えたの」
おばあちゃん「考えないとわからないんですか?」
母「言っとっけど、私はこれでいっさい仕事を辞めるつもりじゃないの。私にはおばあちゃんみたいな生き方はとてもできない。私は私の人生を生きるし、いくらおばあちゃんだからといって、私にもまいにも自分の人生を押しつけることはできないはずよ」
おばあちゃん「たしかにもうオールドファッションなのかもしれませんね」
母「どうしたの?今のはおばあちゃんらしくないわ」
おばあちゃん「どういうのが私らしいのですか?」
母「いつも信念が揺るがないのよ」



○原作小説で印象的だった場面写真
梨木香歩(2001)「西の魔女が死んだ」新潮文庫

p.51〜
中学に入ったばかりの主人公のまいに対しておばあちゃんである西の魔女が、魔女の話をする場面。
西の魔女の祖母は予知能力、透視というような能力が際立っていたが、そのことは隠していた。
西の魔女は「祖母の時代では排斥されないまでも、普通の幸せは望めなかった」と言う。それに対してまいは「今ならテレビスターになれるのにね」と答える。
西の魔女が「まいはそれが幸せだと思いますか。人の注目を集めることは、その人を幸福にするでしょうか」「何が幸せかっていうことは、その人によって違いますから。まいも、何がまいを幸せにするのか、探していかなければなりませんね」と言えば、まいは
「でも、人から注目を浴びることは、一目置かれることでしょ。そしたら邪険な扱いを受けたりいじめられたり・・・・・・無視されることはないわけでしょう?」と聞く。
それに対する西の魔女の答えが「いじめられたり無視されたりするのも、注目されているってことですよ」という当たり前のようで気づけないことだった。


p.111〜
鶏がいたちか狐か犬かに殺された日の晩、一緒に布団に入ったまいと西の魔女の死と魂と身体の話。
「おばあちゃんは、人には魂っていうものがあると思っています。人は身体と魂が合わさってできています。」「身体は生まれてから死ぬまでの付き合いですけれど、魂のほうはもっと長い旅を続けなければなりません。赤ちゃんとして生まれた新品の身体に宿る、ずっと以前から魂はあり、歳をとって使い古した身体から離れた後も、まだ魂は旅を続けなければなりません。死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が、身体から離れて自由になることだと」西の魔女は思っている。
魂=その人ではなく、「魂と身体が合体して」その人自身
それを聞いてまいは「こうやって、考えたり、うれしかったり悲しかったりするわたしの意識はどうなるの。わたしはそれが消えてなくなるのがいちばん怖いの」と尋ねる。
西の魔女は「肉体を持っている人間なら、だれでも傷を負ったら痛いと思うし、風邪をうつされて高熱が出たら、意識が朦朧としてくるでしょう。食べ物がなくなってお腹がすいたら、怒りっぽくなる人もいるし・・・・・・」「最近では、カルシウムが足りないといらいらするとも言われていますよね。それだって身体があるからで、やっぱり身体が意識に影響を与えていますよね」
「で、死ぬってことは、その身体の部分がなくなるわけですから、やっぱり、死んだあともまいは今のまいのままだとは、言いづらいですね」
まいはしばらく考え込んで「身体を持っていることって、あんまりいいことないみたい。何だか、苦しむために身体ってあるみたい」「身体をもつ必要があるの?」と責めるようにきいた。
「魂は身体をもつことによってしか物事を体験できないし、体験によってしか、魂は成長できないんですよ。ですから、この世に生を受けるっていうのは魂にとっては願ってもないビッグチャンスというわけです。」「それに、身体があると楽しいこともいっぱいありますよ。まいはこのラベンダーと陽の光の匂いのするシーツにくるまったとき、幸せだとは思いませんか?寒い冬のさなかの日だまりでひなたぼっこしたり、暑い夏に木陰で涼しい風を感じるときに幸せだと思いませんか?鉄棒で初めて逆上がりができたとき、自分の身体が思うように動かせた喜びを感じませんでしたか?」

その日の夜、まいは蟹になって成長をして脱皮をする夢をみる。「久しぶりにお風呂に入ったみたいにすっきりして、」「死んで魂が身体を離れるときってこんな気持ちなのかなぁ、と思った」
それをおばあちゃんに伝えると、「ありがたい夢ですね」「おばあちゃんが死んだら、まいに知らせてあげますよ」と言った。


p.135
ゲンジさんに金網の修理をしてもらったお礼のお金を、まいがゲンジさんの家に持っていく場面
不快になるのは止めようがなかった。こういう、わたし自身を支配するような感情が生じないように、自分でコントロールできるようにならなければいけない。魔女修行とはそういうものなのだから。まいは自分に言い聞かせた。

ゲンジさんの庭の片隅に薄茶色の毛の吹きだまりが目に入ったことから、まいはゲンジさんの犬がまいの家の鶏を襲ったと考え、それを西の魔女に伝える。
「でも、まいはそれを見ていたわけではないでしょう」
「見なくても分かる」
おばあちゃんはため息をつき、まいをテーブルに座らせ、おばあちゃんも向かいに座った。
「これは魔女修行のいちばん大事なレッスンの一つです。魔女は自分の直観を大事にしなければなりません。でも、その直観に取りつかれてはなりません。そうなると、それはもう、激しい思い込み、妄想となって、その人自身を支配してしまうのです。直観は直観として、心のどこかにしまっておきなさい。そのうち、それが真実であるかどうか分かるときがくるでしょう。そして、そういう経験を幾度となくするうちに、本当の直観を受けたときの感じを体得するでしょう」

※ここを読んだとき、今井むつみ(2016)「学びとは何かー〈探究人〉になるために」岩波新書の第6章にある批判的思考の大切さ、第7章4節「天才」とはどんな人か?の
思い込みにとらわれないの部分(羽生善治さんの著書「大局観」より、勉強がいらないわけではないが、膨大な数の勉強をし、頭に叩き込みながらも、それによって思い込みをつくらないように意識している。)と似ていると思った。


p.158〜
おばあちゃんの部屋で、まいがおばあちゃんと学校に行かない理由と、転校するかどうか話す場面。
グループができるときの心理的な駆け引きみたいのが嫌になって、一切やらなかったまい。結局一人になったうえに、まいはクラスの女子のそれぞれのグループがお互いに友好的になろうとするために、みんなの共通の敵にされてしまった。
「たとえ転校してあのクラスからは抜け出せたにしても、いちばん根本的な問題は解決しないんだよ。だから、何か素直に喜べないのよね。敵前逃亡みたいで、後ろめたいんだ」
「根本的な問題の解決なんて、まいのような新米の魔女見習いには無理ですよ。この場合の根本的な問題は、クラス全体の不安ですからね。クラスのみんながそれぞれ不安なんですよ」
「わたし、やっぱり弱かったと思う。一匹狼で突っ張る強さを養うか、群れで生きる楽さを選ぶか・・・・・・」
「その時々で決めたらどうですか。自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか」

次の日、「やっぱりママと一緒にパパのところに行くよ」とまいはパパに話す。
まいはパパのうれしそうな顔を見て、やっぱりこれでよかったんだと思った。新しい学校がまいにとっての「北極」であるかどうかはわからないけれど、試してみる価値はある。そこを魔女の卵としての自分の秘かな修行の場とするのだ。まいはそう決心したのだった。


p.166〜
まいは雨が少し小やみになったのを見計らって(p.85でおばあちゃんにもらった)「あの場所」に出かけた。
そこでゲンジさんに出くわし、魔女修行のことを忘れて、そのことについておばあちゃんと話をしたことでおばあちゃんとギクシャクする。
次の日、美しい銀竜草や朴の木を見つけて、おばあちゃんに話すときに声が上ずりそうになった。でも、和解したわけではない。
最後に車に乗っておばあちゃんにさようならを言うとき、まいは泣きたかった。おばあちゃんとの別れが悲しいというより、自分の心にあるしこりの重さがつらかった。おばあちゃんは、心配そうな悲しそうな顔でまいを見つめた。まいには分かっていた。おばあちゃんはまいに言ってほしいのだ。あの事件以前のように、「おばあちゃん、大好き」と。けれど、まいには言えなかった。
車が発進し、門を出て、小道を曲がり、見えなくなっても、まだまいはおばあちゃんの訴えるような視線を感じていた。


p.181〜
それから二年がたって、まいはおばあちゃんだって、魔女である前に人間なのだ。ああいう別れ方でおばあちゃんをひとりあそこに残して去ったのは、もしかするとひどく残酷なことだったのではないだろうか、と考えていた。自分がされたことよりも、自分のしたことのほうが、はるかに許しを請うべきことのように思えて、まいは何だか重い気分になってくる。
今度会ったときに少しでもおばあちゃんを喜ばせられるように、まいはとにかくおばあちゃんに教えられたことはなるべく実践していこうと思っていた。まいはあらゆることに粘り強く取り組んだ。
まいはおばあちゃんが死んだという悲しさより、もう取り返しがつかないという恐ろしい後悔の念が、どす黒いコールタールのように、まいの心を覆い始めていた。胸に深く長い刀傷がぱっかりと開き、まいの存在のすべてがその痛みで締めつけられているような感じだった。まいは、もう二度と今までと同じような朝を迎えることはできないと思った。


p.187
まいはテーブルに突っ伏した。そして顔を歪めて、
「ああ」
と絞り出すような声を出した。ただ悲しいというのとは違う、どうしていいのか分からない、悲痛という言葉が今のこの状態にいちばん近いといったらそうかもしれない。涙も出ないのだ。この冷酷さ。わたしは一体どうなっているんだろう。
ゲンジさんから銀竜草を受け取り、嫌悪感なしに会話する。まいはおばあちゃんがしていたように一輪差しに銀竜草を生け、おじいちゃんの写真の前に飾った。
それならあの懐かしいヒメワスレナグサにも水をやりに行き、腰をかがめ、何げなくあの汚れたガラスに目を遣った。そのとたん、電流に打たれたようなショックを感じてそこに座り込んでしまった。
その汚れたガラスには、小さな子がよくやるように、指か何かでなぞった跡があったのだ。

ニシノマジョ カラ ヒガシノマジョ ヘ
オバアチャン ノ タマシイ、ダッシュツ、ダイセイコウ

ああ、おばあちゃんは、おばあちゃんは、覚えていたのだ。あの、約束。
まいはその瞬間、おばあちゃんのあふれんばかりの愛を、降り注ぐ光のように身体中で実感した。その圧倒的な光が、繭を溶かし去り、封印されていた感覚がすべて甦ったようだった。そして同時に、おばあちゃんが確かに死んだという事実も。嬉しいのか悲しいのか分からなかった。
まいは目を閉じた。打たれたように拳を固く握った。堪えきれずに叫んだ。
「おばあちゃん、大好き」
涙が後から後から流れた。
そして、そのとき、まいは確かに聞いたのだった。
まいが今こそ心の底から聞きたいと願うその声が、まいの心と台所いっぱいにあの暖かい微笑みのように響くのを。

「アイ・ノウ」
と。

それまでまいは、聞きたくないことを聞いてしまったこと(p.111〜113)はあっても、聞きたいと思ったものを聞くことができなかった。(p.95〜96)
それが、ここで初めて聞きたいものを聞けた場面。


p.222 解説
まいは、今という歪んだ社会の中にいて、真っ直ぐ立とうとするがゆえに重圧を受けてしまった女の子です。
自然にごく近い姿をしたおばあちゃんと、自然の中での規則正しい生活で、まいの生物としてのリズムが目覚め、体と心がしっかりしてくると同時に、まいの「魔女修行」は始まりました。その人の持つ素質を伸ばす・自分で考え自分で決めるという魔女修行は、本来の人らしいひとになるということなのかもしれません。おばあちゃんは、答えを示すのではなく、厳しさと優しさをもって、まいが、自分で考え自分で決めるのを見守る姿勢を取り続けます。
二年の月日が流れ、おばあちゃんはなくなります。直接言葉を交わすことによっての目に見える仲直りは不可能になり、まいの辛さは深まります。でも、おばあちゃんの魂によって、まいの魂は救われます。
この場面で際立つのは、死が清々しく描かれているということです。生がいきいきと描かれているのと同じく、死もまたいきいきと描かれています。

この物語には、私たちが実際にしあわせに生きるためのヒントが幾つも書かれていると思います。それは、まさに現代社会に生きているまいが、自分の力で立ち直り、自分の足で歩きはじめるのに有効であったということからもわかります。

庭や公園で、そこの土や草の上に、裸足で立ってみてください。靴と靴下を脱ぐのは、最初ちょっと抵抗があるかもしれませんが、きっと何かが目覚めるような感覚を体験できると思います。