〈シネマトグラフ覚書〉を一読してから鑑賞するとより楽しめるかも。映画の始祖的な立場に当たる「演劇」を徹底して拒絶する姿勢で貫かれている。
そもそも「演技」という概念なしに劇映画は成立し得ないので矛盾しているのだが、ではこの絶対性にどう逆らうか…みたいなところがブレッソンの真髄なんだと思う。
演技経験のない素人を好んで多用するのも「演技」に侵された俳優とは決定的に異なる、言わば処女性をキャメラ≠シネマトグラフに収めることが理想なのだと、本作や抵抗のドキュメント性に満ちた画面を見れば一目瞭然。
ブレッソンの映画を静謐・静的という言葉で舞台の側へ安易にカテゴライズしてしまう人もいるが、ではしかし初めてスリをやってのけるシーンの、白い手と顔面の厳つい切り返しを「映画」と呼ばずして一体何と言えばいいのか。ブレッソンの「カット」は文字通り連続性を断ち切り、空間を断絶する。
演技していない写実的な時間とそこに映っている人体を物理的に分解し、「顔」と「手」を再び接合していく編集の暴力性はそこらのホラー映画よりも遥かに鋭利で冷たい。