シゲーニョ

ロング・グッドバイのシゲーニョのレビュー・感想・評価

ロング・グッドバイ(1973年製作の映画)
4.7
ちょっと前に、知人の女性からこんなことを言われた。
「菜々緒が出てるドラマ『忍者に結婚は難しい(23年)』って、ブラピとアンジーの『Mr.&Mrs. スミス(05年)』にソックリなんだけど!?」

彼女には、互いに忍者の正体を隠し、夫婦生活を続けるドラマの内容が、共に正体を暗殺者と知らず、すれ違いの生活を送る夫婦をコメディタッチに描いた映画「Mr.&Mrs. スミス」のパクリに思えたらしい。

自分はいろいろワケあって、ここ数年、日本のTVドラマに疎くなっているため(汗)、
「そう云えば、5、6年前にも、綾瀬はるか主演のドラマ『奥様は、取り扱い注意(17年)』も似てる!って騒がれていたから、たぶん、『Mr.&Mrs. スミス』って、ドラマとかにパクりやすいフォーマットなんじゃないの?」と、適当に応えてしまったが…。

まぁ、ストーリーを始め、キャラクター造形・台詞・セット・音楽など、「洋画」からインスパイアされたであろう、日本のTVドラマは結構昔からあると思う。

すぐに思い出すのは、江口洋介&鈴木保奈美出演の「愛という名のもとに(92年)」が「セント・エルモス・ファイアー(85年)」。石田ゆり子主演の「君のためにできること(92年)」は「ゴースト/ニューヨークの幻(90年)」。中森明菜&安田成美主演の「素顔のままで(92年)」は「フォーエバー・フレンズ(88年)」…etc。
(こう、改めて書き出してみると、全て、平成初期のトレンディードラマだ…笑)

自分が最初に「洋画」と「日本のTVドラマ」の妙なシンクロニシティーを感じたのは、中三の頃、毎週欠かさず観ていた松田優作主演の「探偵物語(79年〜80年)」。

但し、観ていて気づいたのではなく、後日、七つほど年上の映画マニアの従兄弟から教えられた次第である。
「『探偵物語』好きなんだよな? 似ている映画があるぞ!」

それが本作「ロング・グッドバイ(73年)」である。

今更説明するまでも無いが、「ロング・グッドバイ」は、ハードボイルド探偵小説の巨匠レイモンド・チャンドラーが創造した、私立探偵フィリップ・マーロウを主人公とする「長いお別れ(53年)」が原作。

但し、小説の舞台が執筆された50年代なのに対し、本作はその20年後、映画が製作された現代、フリーセックスとドラッグに彩られた70年代のロサンゼルスだ。
なので、監督ロバート・アルトマンが“独自”に映画化した異色のミステリーと言っていいかもしれない。

ちなみにマーロウは、1939年の小説「大いなる眠り」で初登場。
この原作をハワード・ホークスが「三つ数えろ(46年)」というタイトルで映画化し、マーロウを演じたハンフリー・ボガートのソフト帽を目深にかぶり、タバコを燻らせるトレンチコート姿は、フィルム・ノワール(=40年代・50年代の犯罪映画)のスタイル・アイコンとなった。

そんな無口でタフなボガートと正反対なのが、本作でマーロウを演じたエリオット・グールド。

口数ばかり多くて、飄々としていて、ヒッピーくずれの小心者に見えなくもない。
しかし、「探偵物語」で松田優作が演じた主人公・工藤俊作も、いつもフザけたへらず口ばかり利いていたし、グールドの痩せっぽちのノッポで、モジャモジャ髪といったショボくれた容貌は、たしかに工藤俊作にソックリだ。

他にも「探偵物語」との共通点はいくつかある。

先ず、マーロウが、劇中、自分の監視役のチンピラを徹底的にからかうシーン。
車で出かける際、わざわざ、自分の行き先を教えてやったりするなど、完全に相手を見下している。
また、警察での取り調べでは、指紋押印用の黒インクを顔に塗りたくり、映画「ジャズ・シンガー(27年)」で、黒塗りの顔で黒人歌手を演じたアル・ジョンソンよろしく、彼のヒット曲「Swanee(19年)」を歌い、刑事を茶化す。
これらのギャグは、松田優作がドラマの中でよくやる、アドリブでの共演者イジリに、とても似ていると思う。

そして、マーロウが酒はCC(カナデイアンクラブ)とジンジャーのソーダ割りしか飲まなかったり、マーロウの飼い猫が Courry社の猫缶しか口にしない“こだわり派”なのは、愛飲しているのがシェリー酒と酪農牛乳、コーヒーのブレンドにもうるさい、工藤俊作の“イデオロジスト”ぶりを彷彿させるし、マーロウの暮らすマンションの隣室には、ベランダで、裸でヨガをしたり、瞑想したり、ハッパでラリったりしている、フラワームーブメント世代の生き残りのような、陽気な若い女性たちが住んでいるのだが、マーロウの男ヤモメの生活には全く無関心で、そんなところが、工藤の隣に住むファッションモデル&女優の女の子たち、ナンシー&かほりとの不思議な関係とダブって見えたりする。

松田優作は、ホントに本作「ロング・グッドバイ」が好きなんだろう。

ドラマ「探偵物語」以降も、自ら原案を手掛けた映画「ヨコハマBJブルース(81年)」は、ストーリーもキャラ設定も、「ロング・グッドバイ」の影響大なのがアリアリと判るし、初監督作「ア・ホーマンス(86年)」のポール牧扮するヤクザの親分が、表情変えずに手下の口に剃刀を突っこんで切り裂くシーンは、本作でのギャングのボス、オーガスティン(マーク・ライデル)が愛人の顔をいきなり、コーラ瓶で殴打し、血みどろにする場面の丸写しだ(!!)。


さて、本作「ロング・グッドバイ」は、マーロウの友人テリー・レノックス(ジム・バウトン)が、自分の妻を殺害しただけでなく、オーガスティンのシノギで得た金を盗んで逃亡した事件と、行方不明になったアル中のベストセラー作家、ロジャー・ウェイド(スターリング・ヘイドン)の捜索という、2つの事件が並行して進んでいくという展開。

先述したオーガスティンが愛人の顔をズタズタにするシーンは、マーロウがレノックスの盗んだ金の在り処を知っていると勘繰ったオーガスティンたちが、マーロウの部屋を訪れるところから始まる。

オーガスティンは最初、ヤクザ風に凄まず、紳士的にマーロウを問い詰める。
まず「オレは妻子を大切にする常識人だ」と言えば、次に連れてきた愛人の顔をジーっと見て、「見ろ!この美しい横顔…オレが今イチバン惚れているオンナだ」と愛人を自慢したかと思うと、突然、コカコーラの空き瓶で彼女の顔を一撃。瓶は木っ端微塵に砕け、愛人は血みどろの顔で絶叫する…。
そしてオーガスティンは何もなかったように、こう、マーロウに告げるのだ。

「さて、オレはこの世で一番愛している女にもこんなことをするんだ。
でも、オレはお前のことなんか好きでもなんでもない…わかるよな?(笑)」

後年に作られた「グッドフェローズ(90年)」でのジョー・ペシの狂演ぶりに先駆けた暴虐的なシーンだが、実のところ、この場面はチャンドラーの原作「長いお別れ」には存在しない。

ここからは勝手な推察だが…
このシーンは、1953年にフリッツ・ラングによって撮られたフィルム・ノワール「復讐は俺に任せろ」が引用元だろう。劇中、嘘をついた愛人にキレたギャングが、電熱器の上で沸騰しているコーヒーピッチャーを取り上げ、彼女の顔にコーヒーを浴びせかける。

先ほど、本作が、50年代のフィルム・ノワールを“独自”に映画化した異色のミステリーと記したが、このような引例を鑑みると、ロバート・アルトマンは、アメリカン・ニューシネマで描かれたアウトローやアンチヒーローを「フレンチ・コネクション(71年)」や「ダーティハリー(71年)」を頂点に、より娯楽性の高いポリスアクションとして再生産した70年代初頭のハリウッドで、敢えて古典的フィルム・ノワールというジャンルを一度解体し、新たなカタチで再提示しようと試みたのではないだろうか。

そして、フィルム・ノワールを現代にそのまま再生産するのは、もはや不可能であり、失われた神話に過ぎないことを呈示しようとしたのではと、勘繰りたくもなってくる。

但し、それが、当時の観客に受け入れられるかどうかなど、全く考えずに…(笑)

上記したシーン以外にも、本作「ロング・グッドバイ」には、70年代のロサンゼルスが舞台であるにも拘らず、50年代のフィルム・ノワールで描かれたような「LOOK=画」が随所に溢れている。

先ず、主人公のマーロウがひときわ、浮いているように見える。

アルトマンの「マーロウを、負け犬のように描きたかった」という理由で、「M★A★S★H/マッシュ(70年)」でいい加減な軍医を演じたエリオット・グールドが選ばれたこともその一因だろうが、いつもヨレヨレのワイシャツと紺のスラックスを履いていて、周りにいる女性たちやギャングが、明るめの配色でナチュラルな装いでいるのとは対照的だ。

そして、50年代から60年代に流行った、妙に細いネクタイ。
70年代前半は「007/ダイヤモンドは永遠に(71年)」をご覧頂けば判るように、あのジェームズ・ボンドでさえ締めていた、スルメのように幅広のネクタイが主流だった…。

また、マーロウが乗り回すポンコツ車が、いかにもフィルム・ノワールに出てきそうな、ブラック&ホワイトの48年型のリンカーン・コンチネンタル・コンヴァーティブル。カーラジオから流れてくる歌も古臭いジャズ風だ。

「長いお別れ/それは毎日起こること/通りで出会った女性があなたを誘っても/自分の方に歩いてきても/微笑んでいたとしても/平凡な挨拶しかあなたは出来ない/その時、あなたは彼女を手放してしまった/振り向いた時じゃ遅すぎる/あなたは気づくでしょう/彼女が長い別れを言ったことを」

初見の時、自分はスタンダードジャズの一曲だと思っていたのだが、なんと、ジョン・ウィリアムズが本作のために書き下ろしたナンバーで、タイトルは映画同様「The Long Goodbye」。

この曲は、時に女性ボーカル(クライディ・キング)、ある時は男性ボーカル(ジャック・シェルドン!!)、ある場面ではインストゥルメンタル(デイヴ・グルーシン)など、ほぼ“唯一の旋律”として幾度も変奏されながら、エンディングに至るまで本作全篇で繰り返される。

例えば、マーロウがスーパーマーケットに行けば、店内BGMに似合わしいポール・モーリア風のインストが流れ、マーロウがメキシコ国境に行けば、マリアッチ風のクラシック・ギターとカスタネットの演奏に変わり、バーに赴くと店員がピアノで弾き語り始めるといった具合である。

これはハンフリー・ボガードが探偵サム・スペードを演じた「マルタの鷹(41年)」や、ジョーン・クロフォード主演のサスペンス映画「ミルドレッド・ピアース 深夜の銃声(45年)」など、フィルム・ノワールでよく使用された手法で、本来、こういった曲の使用は、登場人物(主に主人公)の情感を外在化する、つまり心の内を観客に伝える機能を持つものだ。

しかし、本作の劇中、玄関のインターフォンを押せばチャイムの音、葬列に遭遇すれば葬送のブラスバンド、果てはギャングの鼻歌にまでアレンジされていくのを聴くと、アルトマンの「古き劇伴スタイル」への皮肉めいたジョークに思えてならない。

また、行方不明になった作家ロジャー・ウェイドとその妻が暮らす、高級集合住宅マリブ・コロニーのゲートを管理する警備員(ケン・サンソム)が、黄金時代のハリウッド映画の大ファンで、ジェームズ・スチュアートやウォルター・ブレナン、そしてフィルム・ノワールの名作、ビリー・ワイルダー監督の「深夜の告白(44年)」の主演女優バーバラ・スタンウィックの台詞を真似るのだが、マーロウ以外は誰もわかってくれず、クスリともしない。これは公開当時、劇場の観客も同じような気持ちだったと思う…(笑)。

本作の撮影監督を務めたヴィルモス・ジグモンドは、アルトマンの演出法・アプローチについてこう述べている。
「彼が映画作りで目指したのは、既存に対する反抗、ハリウッドスタイルに対する反抗でしょう」

既存の型に嵌らない映画作り。
ハリウッドへのアイロニーを込めた演出法。
それらは、アルトマン独自の“批判精神”と言い換えることができるだろう。

本作の冒頭、猫缶の買い置きが切れたマーロウは、仕方なくカッテージチーズ、生卵、塩か胡椒をグチャグチャかき混ぜたものを「頬っぺたが落ちるぞ〜♪」と、愛猫になんとか食べさせようと説得するが、そんな小細工に猫は騙されず、匂いを嗅いだだけで「フン!」とそっぽを向く。

この時、マーロウはニヤッと「そうだよな…俺は Chasen'sの料理のように、上手く作れないからな」と呟くのだが、この「Chasen's」とは、当時、映画スター・大物政治家などの要人が頻繁に訪れるハリウッドに実際にあった有名な高級レストラン。
つまり、マーロウは「Chasen's」の料理はキャットフードと同じで、店に来るセレブは「味」ではなく、「ステイタス」をひけらかすために店に通っていると、皮肉っているのだ。

そもそもアルトマンの作品には、“批判精神”が盛り込まれているものが多い。

「M★A★S★H/マッシュ」では、戦争の不条理さを笑いに混ぜ込んで描き、当時起こっていたベトナム戦争に物申したし、カントリー音楽の祭典を舞台にした群像劇「ナッシュビル(75年)」では、“親に感謝しよう!国に感謝しよう!”といった気持ちを表現しようとするあまり、シュールな世界に突入するカントリーソングを愚弄。
さらに「ビッグ・アメリカン(76年)」では、西部の英雄バッファロー・ビルが実は冴えない小男で、その勇名は三文作家がでっち上げたものに過ぎず、アメリカの西部魂=フロンティア・スピリットなんて、実体のないものの周りに詐話を摘み上げた、アホが喜ぶ神話だと言い放った…。

こういった反権威&反ヒーロー、挑発的なブラックユーモアといった作風は、言い換えれば既存の常識を覆す“仕掛け”のようなもので、我々が日々抱く、現実や社会に対する“先入観”は単なる思い込みに過ぎず、“真実ではない”と伝えたかったのだろう。

あるいは、かつての価値観が、時代の変遷と共に様変わりしてしまったこと、その現実に、ちゃんと向き合えと叱咤しているのかもしれない。

アルトマンの“批判精神”に富んだ作家性の起源がどこにあるのか、今の自分には辿ることが出来ないが、もしかしたら、18歳で士官学校を卒業後、太平洋戦争に出征。爆撃機に乗って50回以上のミッションを果たした従軍経験と、事あるごとにプロデューサーと対立し、45歳になるまでヒット作に恵まれなかった長い下積み、そんな紆余曲折を重ねたキャリアにあるのかもしれない。


本作「ロング・グッドバイ」は開巻していきなり、
製作スタジオ、ユナイテッド・アーティスツのロゴマークから、聴き慣れた曲が流れてくる。
米国アカデミー賞をはじめ、ハリウッド関係のセレモニーのテーマとしてよく使用されている、映画「聖林ホテル(37年)」の挿入歌、リチャード・A・ウィッティング作曲の「ハリウッド万歳」だ。

「ハリウッド万歳!/狂って、見世物じみたハリウッド/どんな小間使いも整備工もイケメンならばスターになれる!/水商売のホステスだって大女優になれるかも/ちょっと歌って踊れりゃね/運試しにおいでよ!/ハリウッド万歳!」

てっきりハリウッド賛歌かと思っていたのだが、歌詞をよく聴けば、映画産業のインチキ臭さを揶揄していることが判る。そしてこの「ハリウッド万歳」は、事件が一件落着し、終幕となる頃、エンドクレジットと共に再び流れる。

「ハリウッド万歳!/どこにでもいるような不器量なアンタでも/スターになれるところさ!/誰だって歓迎される場所なんだ/自分の運を確かめてみりゃいい/ドナルド・ダックになれるかもしれないよ!/ハリウッド万歳!」

なぜ、主題歌「The Long Goodbye」ではなく、「ハリウッド万歳」が開巻と巻末に流れるのか?

またまた勝手な推論だが…
“ハリウッドの異端児”と称された、監督アルトマンのへそ曲がり、そのひねくれた作風ゆえとも思えるが、本作の主題はやはり、“反ハリウッド”そのものなのだろう。

原作者のレイモンド・チャンドラーは、ビリーワイルダーの「深夜の告白(44年)」やヒッチコックの「見知らぬ乗客(51年)」など、ハリウッドに脚本家として雇われたことを機に、アルコール依存症になってしまった。

黄金時代のハリウッドは、成功した小説家を次々に脚本家として、まるで「飼い犬」のように扱い、莫大な金を支払うことで「商品」を作ることを強要した。そのため、自分のクリエイティビティを発揮できず、精神的に崩壊する作家・文学者が少なくなかった。

借金苦のため「マリ・アントワネットの生涯(38年)」の脚本を執筆したフィッツジェラルドや、ハワード・ホークスの「脱出(44年)」のシナリオを手掛けたウィリアム・フォークナーも、ハリウッドで酒に溺れた作家の一人である。

そう、ここまで書けばお分かりになられた方もいらっしゃるかと思うが、
本作「ロング・グッドバイ」の裏主人公は、実はスタリング・ヘイドンが演じた、アル中で本が書けなくなった作家ウェイドなのである(!!)

ロバート・アルトマンは撮影準備中、スタッフやキャストに原作の小説本ではなく、チャンドラーのエッセイをまとめた「Raymond Chandler Speaking(62年刊行)」を配ったという。

そのエッセイには、ハリウッドの嫌悪や自殺願望が書かれていた…。

またアルトマンは「ハリウッド万歳」の歌詞を書いたジョニー・マーサーに、本作の主題歌「The Long Goodbye」の作詞を依頼している。

更に因縁めいたように思えてくるのが、ウェイド役のスタリング・ヘイドンに纏わるハナシ。
ヘイドンは50年代、フィルム・ノワールや西部劇のスターだったが、60年代に入るとハリウッドの豪邸を処分して、サンフランシスコ郊外に停泊させたヨットで暮らす「世捨て人」のような生活を送るようになる。

当時、ヘイドンが書いた自伝「Wanderer(63年)」には、チャンドラーと同じように、ハリウッドに対する嫌悪感が綴られている。

遡ること第二次大戦中、ヘイドンは戦略情報局(OSS)の諜報員として、ユーゴのパルチザンを支援。その流れで、戦後も共産主義者たちと交流を持っていたワケだが、ハリウッドにおける赤狩りが始まると、追求の手が伸び、仲間を密告するよう強要され、証言台に立たされてしまう…。

このことが、ヘイドンの後の人生に影を落とすことは至極当然であり、俳優よりも船乗りになりたかったというヘイドンにとって、ハリウッドに抗えず、結果逃げ出して海に消えていく本作のウェイドは、まさにヘイドンの実像、彼自身だったのではと思えてならない…。


最後に…

自分が本作「ロング・グッドバイ」に惹かれたのは、
松田優作の「探偵物語」に似ているからだけじゃないし、アルトマンの批判精神に感銘を受けたからではない。

暗く湿ったフィルム・ノワールにそぐわない70年代のロサンゼルス、その青い空に白い雲、青い海に白い砂浜。

一見、“気楽に行こうぜ!”的な能天気な雰囲気を醸し出していながら、実は他人のことより、あくまで自己中心的な個人主義が幅を利かせているサブキャラたちの所作、台詞。

ゆるやかなズームやパンを伴いながら絶えず動き回るカメラ、鏡や窓ガラスに幾重にも屈折させて乱反射をワザと起こさせるライティングといった、撮影の名手ヴィルモス・ジグモンドが作り出す重層的な迷宮世界。

そんな70年代の異世界を、ボヤキが入った独り言をブツブツ呟きながら、時に受け流しつつ、時に駆けずり回るマーロウの姿が、たまらなくイイのだ。
(些細なところだが、煙草を吸う時、テーブルや壁などでマッチを擦って火をつける仕草が、初鑑賞時、マネしたくなるほどカッコよく見えた…)

そして、ネタバレを考慮して詳細は最小限に止めるが、原作と全く異なるラストシーン。

友情と忠節を重んじる昔気質のマーロウがとった最後の行動。
それは苦渋の決断だったかもしれない。
しかし、人の善意を無にする行為=裏切りには、其れ相当の報いを与えなければならない。

(但し、物理的な仕返しをすべきだと言っている訳ではない。
裏切られたことによって生まれてしまった憎しみ、怒り、悲しみといった感情をどう使うのか。
あくまでも個人的だが、その方法次第で、未来は大きく変わると思う。)

当時高二の自分が、名画座でこのラストを観た時、とある映画を思い出した。

それは、キャロル・リード監督の「第三の男(49年)」。
自分の死を偽装した友人(オーソン・ウェルズ)に裏切られる男(ジョセフ・コットン)のハナシだ。

そして、終幕後、館内の照明が明るくなるや、フッとアタマに思い浮かんだのは
「『ロング・グッドバイ』って、安易な風刺やパロディじゃなく、ちゃんとしたフィルム・ノワールじゃん!」である…(爆)。