シゲーニョ

イン・ザ・ハイツのシゲーニョのレビュー・感想・評価

イン・ザ・ハイツ(2021年製作の映画)
4.0
お気に入りのミュージカル舞台劇が映画化された時、気に掛けるポイントは人それぞれ色々あると思うが…。

小説・漫画・TVドラマの映画化と同様に、キャスティングとか、ストーリーや登場人物の変更は当然として、個人的に着目するのが、“ステージ”という限定された空間から離れ、どのように“外の世界”を映し出しているかだ。

勿論「コーラスライン(85年)」のように、オリジナルの世界観を守って、敢えて外の世界への広がりを避けた作品もあるし、ブロードウェイ・ミュージカルの映画化、その黎明期に作られた「王様と私(56年)」「南太平洋(58年)」などは、そのどれもが“ロケーション”による舞台のスケールアップが計られたものの、“ステージ”で展開されたダンスや歌のダイナミズムを、フィルムに置き換えるまでには至らなかった…。

そんな中、実際のN.Y、マンハッタンの路上でカメラを自在に動かし、マンボ〜チャチャ〜ジャンプと変化するリズムに合わせて、キレのあるダンス・アンサンブルを見せる「ウエスト・サイド物語(61年)」は、それまでのミュージカル映画とは全く違うインパクト、まさに革新的なミュージカル映画だったと云えるだろう。

そして、その後継者、後継作品と勝手ながら思えてしまったのが、本作「イン・ザ・ハイツ(21年)」。

およそ15年前、自分は運良くたまたま、ブロードウェイのリチャード・ロジャース・シアターでの舞台公演を観る機会を得たのだが、この映画版を鑑賞した際、物語の舞台となるマンハッタン最北部のワシントン・ハイツで実際に撮影された映像、そこに宿る“光や空気”が、歌って踊る登場人物と一体化し、スクリーンから迫ってくる“群舞の熱量”に圧倒され、舞台版の微かな記憶と照らし合わせることなど忘れるくらい、のめり込んでしまったのだ。

「同じだけど違う!」という望外の喜びというか、ミュージカル舞台劇が“外の世界”に飛び出す醍醐味を、まざまざと味わってしまったワケである。

本作「イン・ザ・ハイツ」の舞台は、前述したようにN.Yマンハッタン北部に位置する、ヒスパニック・ラテン(スペイン語圏の中南米系)の人々が多く暮らす実在の街、ワシントン・ハイツ。

街のジェントリフィケーションによって引き裂かれつつあるコミュニティー内で、ボデガ(食品雑貨店)を営むウスナビ(アンソニー・ラモス)、その親友でタクシー会社に働くベニー(コーリー・ホーキンズ)、名門スタンフォード大へ進学したニーナ(レスリー・グレイス)、ファッションデザイナーを目指すヴァネッサ(メリッサ・バレラ)といったキャラクターたちそれぞれが、人生の選択の岐路に立ち、“これからどうすべきか?”と自身の夢やアイデンティティー、そして居場所を模索していく展開…。

先ず、思い起こされるのは映画ならではのシーン。
言い換えれば、映画でしかできない表現を最大限に駆使したショットだ。

ヴァネッサが、一切の人影が無いワシントン・ハイツの大通りを疾走するシーン。

空を見上げながら、デザイナーの夢をあきらめないという決意を込めた「It Won’t Be Long Now」という曲を歌っていると、そんな彼女の願いが届いたかのように、ビルの上から色とりどりの大きな布が降ってくる。

次に、重力無視で踊るベニーとニーナのデュエット「When the Sun Goes Down」。

ジョージ・ワシントン橋の夕景をバックに、二人がしっとりとした愛の交感を歌い上げるシーンなのだが、踊り始めると、そのまま二人の足がアパートの壁に張り付き、身体を横向きにしながら、直角の状態で上階に向かって登っていく。
この重力が180度変わるトリッキーなダンスシーンは、往年の大スター、フレッド・アステアがホテル客室の床・壁・天井を巧みに伝っていきながら、タップダンスを披露する「恋愛準決勝戦(51年)」へのオマージュだろう。

オマージュと云えば、ハイブリッジ公園に実在する公営プールで撮影した、「宝くじで9万6,000ドルが当たったら、どんな夢を叶えたいか」と、主要キャラ全員が夢想しながら歌うナンバー「96,000」。

このシーケンスは、1930年代〜50年代、MGMミュージカルの黄金期を支えた監督&振付師バスビー・バークレーが参加した「百万弗の人魚(52年)」を彷彿とさせる。
水中撮影はもちろん、クレーンを使用したプールで泳ぐダンサーたちの、万華鏡の模様のような隊列をとらえた映像は圧巻の一言。

ところで、ハナシがちょっと横道に逸れるが(汗)、本作の楽曲には独特なフィーリングがある。

ウスナビたちの住む「ワシントン・ハイツ」には、ドミニカ、プエルト・リコ、メキシコ、キューバ、所謂ヒスパニック・ラテン、ラテン系移民が集まる居住地ゆえの“独特の文化”があり、ヒスパニック・ラテンがN.Yで創ったカリビアン音楽“サルサ”をはじめ、ドミニカの“メレンゲやバチャータ”、プエルト・リコ人がレゲエに触発されて生まれた“レゲトン”、そしてヒスパニック系が黒人と同じくらい成り立ちに関わったとされる“ヒップホップ”をミックスした挿入歌が、この街の文化を讃えるかのように劇中で歌われているのだ。

特に感心させられたのは、英語の歌詞を極端な“スペイン語訛り”で歌うことによって、ヒスパニック・ラテン音楽本来の魅力を損なわず、英語でアピールしているところ。

ここからは勝手な持論だが…
元来、ポップ・ミュージックは“作り手の言語”にグルーブ感を左右されるものであり、言語が変わると音楽性も変わらざるを得ない。

例えば、パナマ出身でサルサのレジェンド歌手、本作でも「Breathe」のイントロでその美声を聴かせるルーベン・ブラデスの英語作品「Nothing But the Truth(88年)」は、英語のグルーブに引きずられ、スティングの亜流のような凡庸なサウンドに仕上がってしまい、ブラデス本来の魅力が半減してしまっている。
(注:もう少しわかりやすく書けば、ファンの方には恐縮だが、宇多田ヒカルの英語アルバム「Exodus(04年)」。従来の日本語曲にあった宇多田独自のポップ要素・グルーブ感は「Easy Breezy」1曲くらいで、ほぼ皆無…)

本作のオリジナル舞台劇の演出・脚本・作詞作曲・主演を務めたリン=マニュエル・ミランダが、映画公開時のインタビューで語っていたように、挿入歌を作る上でのイメージ、その源泉は1990年代末期に起こった、リッキー・マーティンの「Livin' la Vida Loca(99年)」やエンリケ・イグレシアスの「Bailamos(99年)」「Hero(01年)」 など、全米中を席巻したラテン・ポップブームにあるのだろう。

そんな極端な“スペイン語訛り”の英語の歌詞が冒頭からイキナリ飛び出すのが、「In the Heights」。

街の住人たちは仕事に行く前、毎朝、主人公ウスナビが営むボデガで、コーヒーや水、そして宝くじを買うのが日課。
「♪〜今日も仕事だ/生活は厳しい…/物価は高騰してるけど/何とか生きてる/終わりなき借金!/請求書の山!/訪れる夜が100万年後に思えるほど 日中は重労働!/コーヒーだけが命を繋ぐ〜♪」

この華やかな冒頭のシーンは一見、ワシントン・ハイツがラテン系らしい、隣人との繋がりがしっかりあり、互いに互いを気遣い合いながら生きていて、 “夢と希望”が溢れかえった街のように思えるのだが、曲が進むにつれ、実はそれを勝ち取るためのきっかけを望んでいるような、行き詰まっているような…“淀み”みたいなものが漂っているようにも感じてくる。

そしてカメラは店の外に移動し、店の前のストリートで展開されるダイナミックなダンスシーンを映し出す。

それを窓越しに見ながら、呟くように歌うウスナビ…
「♪〜オレは街灯って呼ばれてる/世界は回っているのに オレは固まってる/みんなが動き回ってるのに オレは動き出せない〜♪」

このフレーズ時の絵面は、N.Yの街中で、500人ものとんでもない人数のダンサーが踊っていることや、その群舞を店の窓ガラスに映りこませる合成ショットなど、“舞台では不可能な演出”を畳みかけてくる仕掛けに、まず目を奪われる。

しかし、それ以上に、群衆のダンス=コミュニティーの同胞たちが、ウスナビに「その窓を壊せ!街を飛び出せ!もっと大きな夢を見ろ!」と焚き付けているように思えてくるのだ。

本作「イン・ザ・ハイツ」は、ワシントン・ハイツで暮らす若者たちの群像劇になっているが、彼らの胸中に共通してあるものは、「この街をいつか出たい」と云う思いだ。

ワシントン・ハイツを出て祖国に帰りたいと願う者、別の街で夢を追いかけたいと願う者…理由は様々だが、誰もが自分が置かれた状況から脱したいという、「Sueñito(ささやかな夢)」を持っている。

ウスナビが劇中で語る言葉「この街は5年後には消えているかもしれない…」というのは、「ジェントリフィケーション」に対する危惧が言わせた台詞だ。

世界でも物価がメチャ高い都市の一つとして知られるN.Yでは、当然家賃も高額。しかも人気の物件は高倍率でなかなか住めない。そこでIT業界・金融業界で働くニューカマーの高給取りたちが目に付けたのが、低所得者地域の人々が住むワシントン・ハイツ。

都市部の貧困地域へ富裕層が流入することで、その地域自体が変化してしまう現象「ジェントリフィケーション(住宅地の高級化)」が起こってしまい、当然、地価は上昇の一途、家賃が高騰した結果、本来その街の伝統を守り、活性化させてきた貧しいヒスパニック・ラテンたちは立ち退かざるを得なくなってしまう。

つまり、ラテン系コミュニティーが存亡の危機に瀕しているのだ。

劇中でも、移民たちに愛された地元の個人商店、事業所、ヘアサロンが次々に閉店、あるいは市の中心からより遠いブロンクスへ移転していく様子が描かれている。

(そう云えば、スピルバーグがリメイクした「ウエスト・サイド・ストーリー(21年)」でも、ウエスト・サイドが地上げされ、そこにバレエの殿堂リンカーンセンターが建設されるという設定が新たに加えられ、現在のアメリカで問題化されているジェントリフィケーションが盛り込まれていた…)


物語の語り部である、ウスナビもそんな悩みと小さな夢を抱えた1人。
彼の夢は生まれ故郷のドミニカに残された、オヤジのバー「El Sueñito」を再建することで、その夢を叶えるために、毎朝5時30分に起床、小さな食料雑貨店で汗水垂らして働き、地道にお金を貯めている。

でも生活に追われて、気が付けばもう30歳…。
会計士のアレハンドロ(マテオ・ゴメス)に「ワシントン・ハイツを歩けば、デカい夢やプランを持っている人間に必ずぶつかる。お前はいつも夢を語るが、ホントに叶えるつもりはあるのか?」と言われる始末。

そして、ウスナビの憧れの女子ヴァネッサもヘアサロンでネイリストとして働き、しっかり貯金をし、すぐにでもロウアー・マンハッタンに引っ越して、近くにあるファッション業界で働きたいと願っているのだが、そんな夢を不動産業者にいとも簡単に踏みにじられる。

「部屋を借りるなら、家賃の40倍の年収証明書が必要よ!」と嫌味タラタラ、不動産屋のオバさまはヴァネッサの顔を一目見るや、ラテン系移民だからと云う理由だけで入居NGを言い渡すのだ。

このように本作は、“人種差別”という問題にも真っ向から取り組んでいる。
更に付け加えれば、舞台版よりも、現在のアメリカが抱える排外性、民族差別主義などの問題を意識して取り入れ、対抗しようとした作品と言っていいだろう。

舞台版の改稿作業を担当したキアラ・アレグリア・ウデスは、本作の映画化にあたり、まず、ゼロ年代に書かれた舞台版の脚本を解体。舞台で描かれたテーマや問題提起はそのままに、それらをスマートな方法でアップグレードした。

例えば、ウスナビの従弟ソニー(グレゴリー・ディアス4世)が、滞在資格で問題を抱えているという設定は、まさに公開時の2021年に議論が起きている事柄だった。

舞台版のソニーはウスナビよりちょっとだけ年下の感じだったが、映画版では10代になり、場面によってはウスナビの息子のようにも見える。

ソニーはウスナビと違って、アメリカを故郷のように感じていて、ヒスパニック・ラテンの苦しい生活をなんとか救えないものかとデモにも参加しているのだが、幼少期、親に連れられて不法入国したため、在留許可証がなくて銀行口座も開けない。仮に大学に合格したとしても、ちゃんとした財政支援を受けられない。だからいずれ自分はアメリカを追われるかもしれないという焦り、恐れを感じている。

在留許可証を持たないまま、子どもの頃に親に連れられて移住した若者は“ドリーマー”と呼ばれ、彼らは移民局に見つかれば強制送還となることから、オバマ政権は一時的な滞在資格を与えたが、トランプ政権はそれを剥奪しようとしたのだ。

また、街で初めて名門大学に進んだ、まさに“街の希望・誇り・スター”であるニーナは、オリジナルの舞台劇では、貧困のために、生活費稼ぎとして2つのアルバイトを掛け持ちしなければならず、そのため勉強が疎かになって成績が下がり、奨学金を得る資格を失う設定だったが、映画版では、ルームメイトのネックレスを盗んだ濡れ衣を着せられたり、学部長とのディナーでウエイトレスに間違われたりするなど、人種差別を経験し、自分は部外者だと感じてスタンフォード大学を自主退学してしまう。

打ちひしがれた気分で臨んだ食事会の席で、ニーナが父ケビン(ジミー・スミッツ)に発した言葉。
「父さんたちがN.Yへ来た30年前は、両手を広げて迎えてくれるヒスパニック・ラテンのコミュニティーがあったわ。でもスタンフォード大学にはなかった。敵ばっかり…」

それに対し、父ケビンは「お前はプエルト・リコ(=豊かな港)人だが、今はニューヨーク・リコ(=美しいニューヨーク生まれ)人だ。移動し続ける民族なんだ。お前を疑う奴らの言葉よりも、自分を信じろ!」と勇気づけようとするのだが…。


このように、本作「イン・ザ・ハイツ」の登場人物たちは、皆それぞれ夢や将来への希望を持っているが、貧困や差別、社会的地位の低さと云ったスパイラルから抜け出すことが出来ずにもがいている。

そして、それと同時に、自分のルーツであるドミニカやプエルト・リコなどの故郷と、今現在暮らすアメリカのワシントン・ハイツとの狭間で、「自分の居場所は、本当にここで合っているのか?」と、心揺らいでいるのだ。

母国の貧しさや政情不安を逃れてやってきた移民が、アメリカで社会階層を上るのは容易なことではない。

ニーナの父ケビンと、ウスナビを育てたアブエラ(オルガ・メレディス)は、アメリカへと夢を求めてきた移住者。

ケビンは高校中退ながら一念発起してタクシー会社を興したが、今では経営に四苦八苦しているし、親と共に移り住んできたアブエラは長年、富裕層の家でメイドを続けながら、本当にアメリカに来て幸せだったのかと、今更ながら悔やんでいるようにも見える。

そんなアブエラの気持ちを歌ったのが、「Paciencia Y Fe」。
アメリカで生き抜くために、母親と自分が何を犠牲にしなければならなかったかを綴った曲だ。

1943年、移民した当時の苦労を振り返るアブエラ。
「♪〜歓迎されると思ったが苦労の連続/母の世代から引き継がれてきた“アメリカで成功する”という夢のために/毎日頑張って生きてきたが…夢の先に何があるというのだろう/働いて 働いて 働き続けても 幸せは訪れなかった〜♪」

母と共に思い描いた夢を掴むこと、その願いは終ぞ叶わず、アブエラは二度と目覚めることない深い眠りにつく。
彼女の手に握られていたのは、パン屑…。
他人なら気に掛けないささやかなものだが、彼女はそれに愛着を感じて生きてきた。
ほんの僅かな、些細と思える幸せを褒め称えよ…それがここで生きた証なのだと…。

生前、アブエラは悩めるニーナに向かって、「小さなことから尊厳を守りなさい」と助言する。

メイド時代、日々の重労働で荒れた手の平を覆うために、美しい手袋を愛用することから生まれた“小さき民の小さな尊厳”。
それは決して負のイメージではなく、希望のカタチであり、「たとえ希望が未だ小さなかけらであっても、自分たちの存在を誇りに思いなさい!」と、移民のルーツを継ぐ、次世代の若者に説いていたのだ。

劇中の終盤、ヴァネッサもアブエラの言葉を受け継いだかのように、ドミニカに戻ろうとするウスナビに向かってこう告げる。

「私の目に映る世界をあなたに見せたい…」

これはどんな未来が待ち受けていようとしても、今、自分が生きている証、夢を掴み取ろうとする意志を、愛する人に見せたいからだ。

このように街の変化の加速度が増す中、他者からラティーノ、もしくは移民と十把一絡げにされるワシントン・ハイツの人々は、さらなるアイデンティティーの模索を続ける。

自分はドミニカ人なのか、プエルト・リコ人なのか、そのミックスなのか、アメリカ人なのか。
そして、自分が根を下ろすべき場所はどこなのか、それが今立っているこの地ならば何を成すべきか、引き継ぐ者たちに何を残すのか…。

ウスナビは劇中、ヒスパニック・ラテン、その次世代である子供たちにこんなことを言う。
「夢は初めからダイヤモンドみたいにキラキラしていたり、磨き上げられたものじゃない。ゴツゴツして不恰好なものなんだよ」

本作「イン・ザ・ハイツ」は、レビューの冒頭に記したように、素晴らしいラテンの香りがする楽曲がズラリと並んだ、パワフルで華やかなミュージカルでありながら、ひと皮剥くと、そこには恐ろしいまでのビターな現実がドッカリと根を下ろしている。

そして、移民第一世代から三世代にわたるマイノリティーの姿を並列に描きながら、各々の世代がアメリカという国にどう向き合って、どう生きてきたか、あるいは今後どう生きていくべきかを呈示した作品と云えよう。

アメリカに渡ってきた先人たちから、夢を託された若者たち・子供たちが、普通に「自分はアメリカ人だ」と信じていても、マイノリティーに対する壁は、いつまでもどこまでもついて回り、残念ながら決して消えることはないのだ…。


最後に…

繰り返しになるが、ラテン系移民を題材にしたミュージカル、その嚆矢と云われているのが、1957年に初演された「ウエスト・サイド物語」。

その挿入歌に、消費社会のアメリカを賛美する女たちと、プエルト・リコ人の矜持を大事にする男たちのダンスバトル内で口ずさまれる「America」という有名な曲がある。

「♪〜ワタシたちはアメリカの暮らしが大好き!
 だってここには自由がある〜♪」
「♪〜その自由も金があってこそだろ!〜♪」
「♪〜アメリカでなら、ワタシたちの人生はバラ色よ〜♪」
「♪〜差別と闘わなきゃいけないのを忘れるなよ!〜♪」

平たく言えば「アメリカに行けば夢が叶う!」「いや、それは白人だけだ!」と云う掛け合いなのだが、70年近くも前に書かれた曲なのに、歌詞の内容は本作「イン・ザ・ハイツ」とあまり大差が無い…。
そこに描かれている移民の問題は昔も今も切実で、2つの世界は遠いようで、実ははとても近いことが判る。

しかしながら本作「イン・ザ・ハイツ」は、それを乗り越えていこうとする逞しさ、パワーが終盤のクライマックスで爆発する。

市の嫌がらせなのか、計画停電が続き、へこたれる者、街を出ようとする者、店を閉じる者…。
そこにヘアサロンを経営するイケてる姉御ダニエラ(ダフネ・ルービン=ヴェガ)が「パワー(電気)が無くても、アタシたちはパワフルよ!」と喝を入れ、住民が一斉に歌い踊り始める曲「Carnaval del Barrio」。

「♪〜生まれ育った故郷/さまざまな血が混ざった/自分の出自を思い出せ!/魂が詰まっているだろ?/現実を嘆くな!/何も変わらない 何も前に進まない〜♪」

さらに、この曲は先人たちを讃えるコーラスへと変わっていく。
「♪〜旗を揚げろ!/故郷の旗を!〜♪」

この移民の子孫たちが、それぞれの故郷の国旗を軽やかに掲げるシーンは、アブエラが諭した“自分たちの尊厳を保つ”という、本作の主題を見出すことができる。

親から子へ、子から孫へと受け継がれていく〝Sueñito(小さな夢)“。
それがやがて大きな夢へと結実していくであろうことを感じさせてくれるのだ。

そして、ネタバレで大変恐縮だが、本作のラストカット。

ウスナビが抱きかかえた子供の笑顔、その暗転直前のカットは、生まれ故郷のドミニカで父と過ごした幼年期が“人生最高の日々”と思い込んでいた、当時8歳のウスナビと父親のTwoショット写真にそっくり…。

つまり、ウスナビにとっての“人生最高の日々”とは過去形ではなく、今、現在であり、今後も永遠に続くことを示唆するエピローグなのだ。



追補:

本作「イン・ザ・ハイツ」には、ラテン系移民の歴史、過去・現在・未来を内包した素晴らしい楽曲群が、ホント目白押しなのだが、中でも個人的に一番印象に残ったのが、ニーナの帰郷を祝うホーム・パーティーで流れたレコードの曲、ドリーン・モンタルボが歌った「Siempre(永遠)」。

古いキューバ民謡「Son」のように聴こえるが、実は本作オリジナルの曲。

このシーン以外でも、開巻いきなりのワーナーのオープニング・ロゴからウスナビが子供たちに昔話を聞かせている場面でインスト曲として、また最後のフィナーレでは、ヴァネッサのワンコーラス目でも使用されており、実は本作「イン・ザ・ハイツ」の裏テーマソングなんじゃないのかと勘繰りたくもなる(笑)。

「♪〜どうか行かないで/私の元から去ってしまったら/あなたは思い出になってしまう/永遠に…永遠に〜♪」

レコードに傷があるのか、針が飛んで「♪〜永遠に…永遠に…永遠に〜♪」が無限ループする。

そして、アブエラは「この針が飛ぶところのフレーズが好きなの♡」とポツリ言う…。
おそらくだが、毎年、事あるごとに何度もみんなで聴いて、何度もみんなで歌ってきたために、レコードに傷が出来てしまったのだろう。

この「♪〜Para Siempre(永遠に)」というフレーズには、今ある幸せが後世まで「永遠に続いて欲しい」という願いが込められているように聴こえてくる。

レコードの傷という、ほんの些細な事柄でさえ、アブエラたちラテン系移民の「小さな尊厳」に思えてしまったのだ…。